「此之御世定賜 海部 山部 山守部 伊勢部也」なのだそうです。
もちろんこの箇所は何度も読みましたし、対馬へ行った折に
「シキ・シカ・シコ」の語尾変化を実感しています。
ですから「イセ・イソ・イシ」の語尾変化もありうると思います。
しかしどんなことも頭から決めつけてかかっては狭隘化しかねません。
古代人のダイナミックな考え方や行動から生じた言葉を
あとづけの文法や理屈で推しはかるような愚行は慎まねばなりません。
ゆえに、それこそ上塗りのあとづけで信用ならない由緒などは調べず、
地名と延喜式神名帳に記載された社名を頼りに旅のプランを立てています。
伊勢部が「石部・岩部・礒部」に通じるのなら、海人族とのつながりから
金明竹の謎を解くカギが見つかるかも? と期待した加賀への旅。
空港近くの「篠原」で金明竹を見、「篠原神社」へ向かいました。
往古、潮津村の前潟から当社地あたりが「八潮の湊」と呼ばれたことから
「八潮宮」とも称されましたが、延喜式内社篠原神社に比定されています。
境内にあった碑文によれば、
祭神が天児屋根命になったのは祝部をつとめた「中臣氏」の祖神だったからです。
姓というよりは祝詞を司る役名みたいなものだったのかもしれません。
磯部氏とは無関係と断じるのは難しそうですね…。
次に加賀海岸沿いに南下して向かったのは延喜式内社「宮村岩部神社」。
「宮村」は地名でしょう。現住所が「宮町」ですから。
なお漢字に「峯」と「峰」があるように、「岩」は「山石」と横並びでした。
が、字が一般的ではないため(?)社号が「岩」になっていました。
元は「石部(いそべ)薬師」と呼ばれ、「天神様」と通称されてきたそうですが、
しかし、当社は延喜式内社に列せられても普通の神社とは違います。
まず本殿がない! 古来より社殿を築けば雷鳴が起ると言われてきたそうです。
『三州奇談』によれば、いつの頃からか、草蛙(とびかみ)大王の社があり、
大木が二股になっている中に挟まれた巨石が御神体とのこと。
また薬師信仰と習合し、病気平癒に霊験があるとして崇敬を集め、
近国遠村の人々が参拝に押し寄せて田畑の畦道が四条大路のようであったとか。
そのため、遠く高尾町や小松市にも当社の遥拝所が存在するといわれています。
次は海岸線から内陸に入るのにより海人族っぽい「菅生(すごう)石部神社」です。
なにしろ神紋が洲浜紋! まずこれが目にとまりました。
新潟の御島石部神社も同じく洲浜紋なのだそうです。
●古来よりいかなる祭典の際にも御本殿の御開扉をせざること。
●祭神 日子穂々出見命の故事により、古来「鯛」を神饌とせず。
●「蛇」「亀」は御神使にして豊玉毘賣命の眷属ゆえ、之を殺すことなかれ。
等々、一社古伝の秘事なるものがあるようです。
かつて秀吉の直臣として加賀大聖寺六万石余を知行していた山口玄蕃(1545~1600)の頃
当地に遷座したとされる「三輪社」です。
この石碑にハッキリと「磯部国玉神社 祭神大物主神」と「磯部権現」
「無格社磯部神社を合併」の文字が刻まれています。
「すがなみ」という地名も海人族の居住地という感じがします。
先の宮村岩部神社から直線で東南東に12kmの位置に花山神社があります。
現在は小松市菩提町ですが、古くは「蛭子村」であったと書かれています。
花山天皇(968-1008)云々は別として、やはり海人族っぽい地名ですね。
まるで寒村のようなことが書かれていますが、周囲の山の形に疑問を持ち、
運転手さんに「大昔このあたりで製鉄など行なわれていませんでしたか?」と
尋ねると、神社の真向かいに位置する人工的な山並を指して、
「ここじゃありませんが、あの山の周辺で何かやっていたようですよ」との返事。
ほんとうの寒村に法皇が来たなどという伝説が生まれるはずもなく、
現在の戸数から千年二千年前の状態を推し量ることはできませんよね。
そうして翌日は「加賀総社石部神社」を訪ねました。
主祭神は「宮村岩部神社」と同じ。表記は違っても以下すべて同神だそうです。
櫛御方命(くしみかたのみこと)
天日方奇日方命(あめひかたくしひかたのみこと)
武日方命(たけひかたのみこと)
阿田都久志尼命(あたつくしねのみこと)
鴨主命(かもぬしのみこと)
久斯比賀多命(くしひかたのみこと)
……
鳥居の扁額に往時の勢いがうかがえます。
「イソベ神社」が加賀海岸から内陸部まで分布していたことは、加賀国誕生前から
磯部氏が当地に居住していたことの根拠の一つになるでしょうか?
社殿の裏へまわると、白山が今回の旅の中で一番大きく見えました。
このような次第で、磯部=伊勢部の本拠地へゆかねばなるまい…と思っています。
……
天武12年(683)、伊賀・伊勢・志摩の国境が定められ、その前後の志摩国の支配者を
『鳥羽志摩新誌』(中岡志州編/1970)は以下のように推定しています。
笠屋命→高橋氏&安曇氏(←宮中だけでなく志摩国にもこのコンビが!?)
→多治比氏→高橋氏→門部王→多治比氏→敢磯部忍国為(←磯部とアヘが合体?)
→県造久太良→伴良雄→酒見文正→多治比氏→多治比貞岑→高橋継善
朝廷から支配者を派遣されたことで、磯部氏は北を目指したのかもしれません。
むろんそれ以前から良い資源のある土地を求めて移り住んだ例もあったでしょう。
また志摩国には上に名前が出てきた安曇氏に関係ありそうな地名も散見されます。
やっと古代への扉の前に立てた気がしています。