藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

八代 尾張宮古墳

九州行きを決めた段階では新幹線がいつ復旧するかわかりませんでした。
それが(熊本~新八代間が徐行運転だとしても)こんなに早く動くとは…。
ぼんやりと窓外を見ていたら、なぜか涙が出てきました。
熊本の野菜はずいぶん関東に入って来ていますので
食べて応援!! 旅して応援!! ですね。
 
八代地方最古の4世紀の古墳群の上に尾張神社があると知り、
藍川を名乗って生きてきた者として行かねばなるまいと思いました。
本日も降水確率90%の熊本県地方です。
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左手が球磨川、タクシーの行く手に見えるのが大鼠蔵(おおそぞう)山、
その右に小鼠蔵(こそぞう)山があるのですが、撮れてませんでした。
1847年に干拓されるまで二つの山は独立した島だったそうです。
大鼠蔵山には楠木山古墳と尾張宮古があります。
尾張宮古は割石積みの横穴式石室で石障に円紋が彫られた装飾古墳だとか。
高さ40mとのことで急階段を一気に登り、そこから先は苔むした緩い階段でした。
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この「尾張神社 参道」が唯一の手掛かりでした。
これを見逃したら周囲をグルグルまわるだけで辿り着けませんでした。
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おおお…私の大好きな参道です。
しばらく歩くと、社殿が見えてきました。
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やっぱり人工的建造物がこわい…。
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有難いことに案内板がありました。
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では来た道を戻るとしましょう。
ずっと眺望がなく、先端に戻ってやっと球磨川が見えました。
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この危なっかしい階段まで、10分ほどで戻ってきました。
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降りると岸辺で大きな鳥たちが舞っていました。
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実はこの対岸にパワースポットとして有名な龍神社があり、球磨川の中洲の
水島にも鳥居と社殿があります。どちらもちゃんと鎮座していました。
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「水島」は八代市植柳、球磨川の河口にある小島で、
日本書紀』景行紀十八年四月十八日条に水に纏わる説話がのっており、
万葉集』巻三には次の和歌が収められています。
 
「長田王 筑紫に遣はされて水島に渡るときの歌二首」
聞きしごと まこと貴く 奇(くす)しくも 神(かむ)さびをるか これの水島(3-245)
芦北の 野坂の浦ゆ 舟出して 水島に行かむ 浪立つなゆめ(3-246)
 
時間切れで対岸に見える青屋根の龍神社を諦め、地図上の豊葦原神社へ行ったら
民家が建っていて絶句…。メゲズに遥拝神社へ立ち寄ってから駅へ戻りました。
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ん? 由緒書のようなものが。豊葦原神社遥拝神社!?
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はたして豊葦原神社遷座したのか、地図が間違っていたのか?
神職さんの自宅に神社名が載っていたことがあるし、たぶん地図の間違いでしょう。
遥拝神社なら、この高台でないと成立しません。
八代郡誌』に
「征西将軍懐良親王、高田御所御在館の時、常に当社より吉野の行在所を遥拝せられ、
社殿の修復を営み、随従の諸士に命じて石段四八段を献納せしめ給う。
故を以って遥拝宮と称す」とあるからです。
 
では、「高田御所」とは?
八代市史』に
名和義高が後醍醐天皇より元弘の恩賞として八代の荘を拝領し、
建武2年(1335)に地頭代として八代に下向した河内義真が荘園を守るために
居城を古麓の上り山一帯に築き、八代城下に用水の取り入れ口として杭瀬を作った。
これが「遥拝堰」の起こりで、これら用水施設の総鎮守として、南岸の高田山の麓に
賀茂宮を勧請し、用水の守護と五穀豊穣の神と尊んだとあります。
 
「社号は賀茂宮から、木綿葉大明神遥拝宮、そして明治維新後、豊葦原神社と改称し
村社に列された」と遥拝神社ホームページに明記されていました。