藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

安房国

千葉県では、下総国上総国を何度か訪れたのですけれど、
平日に特急が走ってないと知らず計画倒れになるなど、安房国は遠かった…。
いえ、未だ着いていないのですが、特急に乗ったので大丈夫かと。
 
安房国に関しては、阿波徳島の忌部氏が移住したとの説を信じていました。
ところが、昨日調べたら開拓の事実はないらしい…。
俗説をそのまま信じていた己の愚かさを恥じるのみです。
常陸国風土記』に孝徳天皇2年(大化2年/西暦646年)春正月甲子朔に改新の
詔が出された後、足柄峠以東の「あづま」の地域に8つの国が置かれたと
ありますが、安房国奈良時代上総国から分立したため含まれていません。
 
私はどうも、歴史的事実を調べる前に、鬼退治をした桃太郎と聞けば
鬼が悪者と思ってしまう性格のようで、単純というかおめでたいというか
日本は平和な国だと思って生きてきたバカ者だったと気づきました。
朧谷先生の『源氏物語』の御講義を拝聴した際、冒頭の
平安時代は1%の貴族のために99%の日本人が働いた時代だということを
踏まえていないと『源氏物語』は理解できませんよ」に衝撃を受けました。
しかし、半世紀以上ものあいだ勘違いしたまま生きてきたのですから
軌道修正するのは大変です。まだ修正途上ですが。
その確認作業に演奏修行を利用しているわけです。
 
さて、今日は縄文の遺跡と神社のありようを見てまわります。
その前提として、以下の情報をインプットしておきます。
 
斎部広成(斎部=忌部)の『古語拾遺(807年成立)に記された
阿波忌部の東遷説話によれば、忌部氏遠祖の天富命(あめのとみのみこと /
天太玉命の孫)は各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、
さらに良い土地を求めて阿波地方の斎部を率いて東に赴き、麻・穀を植えた。
阿波斎部が移住した地は「安房郡」と名付けられて安房国の国名になった
とするほか、同地に祖神を祀る「太玉命社」を建て「安房社」にしたとする。
 
他方、古代史料では安房郡司・安房神社神職など安房地方の在地関連人物で
忌部の存在は知られず、 むしろ安房地方に濃密に分布したのは膳大伴部
であったため『古語拾遺』の説話の史実性は否定されている。
そもそも『古語拾遺』自体、中臣氏との勢力争いの中で忌部氏の正統性と
格差是正の目的で編纂されたものと見做されているため、
安房への東遷説話は造作で東国(特に常総地方)の中臣氏勢力と対抗する
目的があったと指摘する説が有力らしい。
 
延喜式神名帳では宮中の大膳職坐神三座のうちに「御食津神社」がある。
天平3年(731)に「阿(安)房の刀自部」に「膳神(かしわでのかみ)」を
祀らせるようにとあることから、古くは安房地方の女性(刀自)が上京して
この膳神(御食津神)の祭祀を担ったとされる。
この記述が『高橋氏文』の記す安房神の宮中勧請の傍証である。
 
新撰姓氏録逸文によれば、景行天皇の時に磐鹿六鴈命が「膳臣」の氏姓を賜り、
天武天皇の時に六鴈命十世孫の膳国益が「高橋朝臣(高橋氏)」に改めています。
宮中の大膳職に「御食津神」として祀られたのは高橋氏の「膳神」です。
安房神」として宮中に勧請されたとあっても忌部氏の祭神ではありません。
なお、現在、安房神社に高橋氏の「膳神」は祀られていないようです。
上の宮(本宮)には天太玉命・天比理刀咩命および忌部五部神(出雲・阿波・紀伊・讃岐・
筑紫の忌部の祖)、下の宮(摂社)には天富命天忍日命が祀られているそうです。
 
膳臣=高橋氏といえば阿曇氏とともに律令制における宮中内膳司の任にあり、
いずれも海の幸の提供者でしたが、最終的に阿曇氏は膳臣=高橋氏に敗れました。
以前、高橋氏の「膳神」を探しに行ったら個人の邸内だったので諦めたことも
ありました。たしか平将門國王神社の近くです。
 
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南房総の海沿いにある洲崎神社に咲いていた…桜?
 
そこから東に進むと安房神社があり、そこにも…桜?
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よくわかりませんが(何となく梅っぽい?)、どちらもきれいでした。
 
…おっと、ここで私としては珍しく、10分ほど意識を失いました!?
普段は電車の中でブログを完成させるのですが? まだ1時間はありますね。
寝落ちした理由は階段だと思います。何せ150段ほどを二度…。ほかも普通に。
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こちら洲崎神社ですが、なぜ鳥居に「久那戸大神」の字が?
祭神は安房神社男神に対し、洲崎洲宮が女神となっていたようですが?
 
千葉大学井上孝夫教授(社会学)は『安房地域の基層文化』で、
安房神社を中心に房総半島に広がっている「ミカリ」は、忌部氏独自というよりも
住吉神社を奉斎した阿曇氏の「メカリ神事」の伝承であろうと指摘しておられます。
谷川健一先生が「メ・ウラ」=「ワカメの採れる海岸」と言われたように
布良崎神社のある「布良(メラ)」はワカメを信仰していた海人
(すなわち北部九州の阿曇氏)と関連づけるのが自然だと仰せです。
 
また『続日本紀』文武3年(699)5月の条にある役行者伊豆大島への流罪
夜になると各地を飛び回っていたという役行者伊豆大島から見える安房へ行き、
洲崎神社に大蛇退治の伝説を残したとされることに着目しておられます。
「修験者はもちろん製鉄・採鉱の民族であり」
「大蛇は蛇を信仰する先住の一族を象徴するものだろう。
そしてそれを退治する行者は後発の征服者に相違ない」
と井上先生は書かれています。
何より「洲崎から布良にかけての平砂浦と呼ばれている海岸は
別名を『鬼が浦』といい、鬼としての製鉄民を暗示している」に注目です。
出ました「鬼」!! 「真金吹く吉備」でも退治されたオニです。
 
さて、安房神社では社殿を見ず、縄文の遺跡を探しました。
洞窟のあとに斎館が建っていて、なかなか見つけられませんでした。
しかも遺跡として認定された後、埋め戻されていますし。
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洞窟から出た22体のうち抜歯習俗の見られる人骨は15体でした。
抜歯やイレズミという古相の習俗は海人族に見られる特徴です。
しかも抜歯は縄文時代からではなく旧石器時代の港川人にも見られたそうです。
昭和7年、縄文海進によって出来たこの洞窟から発見された人骨を
安房神社は忌部一族の人骨とし、発見直後に「忌部塚」を造って祀りました。
おめでとうございます、これで既成事実になりますね。
 
忌部氏は当初「忌部首(おびと)」を名乗り、5世紀後半から6世紀前半頃に地位を
確立したとのこと。祖先は徐福の時代かそれよりあとに渡来したはずですが?
 
この2社の前、今日最初に行ったのも縄文の遺跡でした。
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何でこういう祠を建ててしまうのか理解に苦しみますが、右の社殿の奥の地層が!?
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この説明を読んで興味をもち、足を運んだのでした。
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↓このこんもりの磐座には、なぜ祠が嵌め込まれているのでしょう?
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海蝕洞穴を本殿とする↑船越神社には、山伏が洞穴に犬を連れて入っていったら
行方不明になり、後日、館山市犬石の洞穴から血まみれの犬だけが発見された
けれど外気に触れたとたん犬が石になってしまったとの伝承があるそうです。
こちらが↓犬石神社
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私は神武天皇が吉野で出会ったとする「尾のある人」が房総半島に入植して鉱物に
関わっていたのでは?と感じたわけですが、井上先生もこう書かれていました。
「行者が犬を連れて歩く」という伝説もまた「空海と犬」の伝承と同様に
金属資源を探査する話として類型的なものである。
 
海人族の古社が安房神社の配下に置かれ、忌部氏によって作られた歴史を
目の当たりにすると、数多くの縄文の遺跡を中心に集落を形成していた人々、
鉱物に関わった「尾のある人」たちがどうなったのかが気になります。
この地で見た「こんもり」が蜘蛛窟や鬼塚でないことを祈ります。
 
本日は4時間半で11社まわりましたが、画像の容量に限界があるため、ラスト…。
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浅間神社らしく小山をつくって頂上に社殿を建てていました。
運転手さんは「ここですよ」とドアを開けてくれましたが、
後方に目をやると、てっぺんに建物が!!
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「アレですよ~」!! 里宮には目もくれず、螺旋状の階段をひたすら登りました。
次回は是非お天気の良い日に伊豆大島を見たいですね…。