藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

美馬

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天気予報の通り、10日は雨でした。
花粉症の私にとっては恵みの雨かと思いましたが、
前日のスギ花粉で鼻の粘膜が敏感になっていて、クシャミの嵐でした。
 
神亀3年(726)行基の開基と伝わる大瀧寺(標高940m)から阿波国を目指しました。
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これは空海延暦10年(788)に続く二度目の登山をした弘仁6年(807)
"西照大権現"の御尊像を配置したと伝わる大瀧寺の境内鎮座の西照神社から
一段高く上がったこんもりにある熊野神社の隣で撮りました。
 
このこんもりを下から見たら視界が烟っていました。
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そして西照神社は…
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大瀧寺西照神社も、奥は禁足地になっていました。
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往時の姿は想像できませんが、一大修験場だったのではないでしょうか?
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大滝山を下りていると雨足が弱くなり、次第に視界が開けてきました。
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下山して吉野川を越え、目指すは蜂須神社です。
「蜂須崖」と呼ばれる景勝地にあり、嘘か真か、その崖に蜂の巣があるから?
とか、蜂須賀氏と関係があるのでは? とか言われているようです。
以前、剣山へ行った時に国道438号線から見て、足を運びたいと思っていました。
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そう、あの橋の上から下を覗き込んだのです。
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もう社殿とかどうでも良いのですが、当社はなかなかユニークです。
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私は例の雪だるまコートです。前日と打って変わっての低温だったので。
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当社の創祀年代は不詳。祭神は八千矛神
延喜式神名帳阿波国美馬郡式内社(小社)「八十子神社」の論社だそうです。
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もとはもう少し川に近いところに鎮座していたため
度重なる洪水により記録のほとんどを流失したそうです。
社殿の下だけが岩盤じゃないのは、洪水に遭わないよう、
わざわざ石を積んで社殿を上げたということなのでしょうか?
 
さて、当社の西方に御所神社があります。
徳島駅近くの忌部神社の旧地とされているため行ってみました。
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何これ?! と固まっていたら、ご近所さんがいらして、忌部神社徳島市内に
移転したのち、30年ほど前(?)に旧社地から遷したと教えて下さいました。
明治には出雲大社金比羅さんも大変革されたことが知られていますが、
忌部神社も例外ではなかったようです。
 
中世以降所在不明となり、近世には複数の神社が「式内 忌部神社」を主張。
明治4年(1871)に所在地不明のまま国幣中社に列格したのち
翌5年に麻植郡山崎村(現 吉野川市山川町)忌部神社式内社に決まりました。
これに異議を唱えたのが、ここ美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)五所神社で、
式内 忌部神社を主張して、明治7年(1874)に改めて山崎村の忌部神社
式内社に比定するとの太政官布告が出されても論争を続けました。
明治14年(1881)五所神社が社名を「式内 忌部神社」に変更するや
今度は山崎側が反発したため、太政官名東郡富田浦町(現 徳島市)
新たな社地を定めるとの妥協策を提示。
明治18年(1885)眉山中腹の現在地が選ばれ、同地鎮座の金刀比羅神社
遷座すると同時に、ここ御所神社が境外摂社になったそうです。
そして明治25年(1892)の社殿竣工により5月15日に現在の徳島市遷座
 
どれほど有り難い話なんでしょうか?
社史は山崎村の忌部神社をもとにしているらしいのですが、
天皇陵の被葬者さえ明らかに出来ないのに、忌部古墳の主を忌部氏だと
主張されても困りますよね。裏づけがないので説得力に欠けますし…。
第一、私が知りたいのは忌部氏誕生以前の祭祀です。
無駄と知りつつ、それでも地形を見ておきたく、来てしまいました。
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ん? 御所神社五所神社から勝手に改名したんでしたね。
↓現在の社殿は「忌部奥社 御所神社」となっています。
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徳島県には平家の落人伝説が多く、
「御所」と改称したからには貴人が逗留した記録でもあるのでしょうか?
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御所神社旧社地は、このような段々畑の上にありました。
道幅は人一人がやっと通れるくらいしかなく、警護しやすい地形です。
しかも、ここへのジグザグ道には、まるで関所のようなお堂がありました。
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今も昔も、ここに居れば通行人をすべてチェックできるでしょう。
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急勾配のジグザグ道を見ながら、ここへ落ちのびてきた人たちは、
たとえば平家の落人、もっと突っ込めば「御所」で護衛すべき
複数の替え玉を含む安徳帝を奉じた人々の可能性もあると妄想しました。
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なにげに「国の登録有形文化財」でした。
ここからは幹線道路へ出ず、山越えでほぼ同緯度の土々呂の滝へ。
その間いくつものお堂を目にしました。
古来、修験者や旅人たちの命を守ってきた場だったのかも。
 
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滝音にひかれてやってきました。
けれど滝壺までは長い階段があり、雨で濡れて滑りやすいので
同行のM先生が撮影してきて下さいました!
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うわぁ~~!! 滝音にふさわしい威容です。
ここから更に奥へと向かいます。
以前、友人から「仕事で行った神社が、人里離れた山の中なのに
あまりにも規模が大きくて驚いた」と聞いていたので足をのばすことに。
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エッ?! 何ですか↑あの階段!!
そういえば、徒歩でしか上がれず大変だったと言ってました。
何度か私を乗せて演奏修行旅に付き合ってくれた健脚なのに。
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ここまで来たのですから、私も登るほかないでしょう。
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こ、これは巨大な屋根ですねえ…。
社殿の後ろは例によって断崖絶壁。
こんな大きな社殿を、どうやって山奥に建てたのでしょう?
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下流でさっきの土々呂の滝となる川が見えました。
度肝を抜かれるとはまさにこういう状態かと思われますが、
静かにせせらぎの音を聴いていたら、突然けたたましく
17時を知らせるチャイムがなったので帰途につくことに。
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ああ、あの橋を渡ってから長い階段を登ったのでした。
振り返って現社名を撮っておきましょう。
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社名は照王神社でした。
「天照」なら日本中にありますが、珍しい社名なのに、
大滝山には西照神社もあったので関連があるかも?
と思い、やって来ました。
まるで要塞でしたね…。
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