天気予報の通り、10日は雨でした。
花粉症の私にとっては恵みの雨かと思いましたが、
前日のスギ花粉で鼻の粘膜が敏感になっていて、クシャミの嵐でした。
"西照大権現"の御尊像を配置したと伝わる大瀧寺の境内鎮座の現 西照神社から
一段高く上がったこんもりにある熊野神社の隣で撮りました。
このこんもりを下から見たら視界が烟っていました。
そして西照神社は…
大瀧寺も西照神社も、奥は禁足地になっていました。
往時の姿は想像できませんが、一大修験場だったのではないでしょうか?
大滝山を下りていると雨足が弱くなり、次第に視界が開けてきました。
下山して吉野川を越え、目指すは蜂須神社です。
「蜂須崖」と呼ばれる景勝地にあり、嘘か真か、その崖に蜂の巣があるから?
とか、蜂須賀氏と関係があるのでは? とか言われているようです。
以前、剣山へ行った時に国道438号線から見て、足を運びたいと思っていました。
そう、あの橋の上から下を覗き込んだのです。
もう社殿とかどうでも良いのですが、当社はなかなかユニークです。
私は例の雪だるまコートです。前日と打って変わっての低温だったので。
当社の創祀年代は不詳。祭神は八千矛神。
もとはもう少し川に近いところに鎮座していたため
度重なる洪水により記録のほとんどを流失したそうです。
社殿の下だけが岩盤じゃないのは、洪水に遭わないよう、
わざわざ石を積んで社殿を上げたということなのでしょうか?
さて、当社の西方に御所神社があります。
移転したのち、30年ほど前(?)に旧社地から遷したと教えて下さいました。
忌部神社も例外ではなかったようです。
中世以降所在不明となり、近世には複数の神社が「式内 忌部神社」を主張。
新たな社地を定めるとの妥協策を提示。
仮遷座すると同時に、ここ御所神社が境外摂社になったそうです。
どれほど有り難い話なんでしょうか?
社史は山崎村の忌部神社をもとにしているらしいのですが、
主張されても困りますよね。裏づけがないので説得力に欠けますし…。
第一、私が知りたいのは忌部氏誕生以前の祭祀です。
無駄と知りつつ、それでも地形を見ておきたく、来てしまいました。
ん? 御所神社? 五所神社から勝手に改名したんでしたね。
↓現在の社殿は「忌部奥社 御所神社」となっています。
徳島県には平家の落人伝説が多く、
「御所」と改称したからには貴人が逗留した記録でもあるのでしょうか?
御所神社旧社地は、このような段々畑の上にありました。
道幅は人一人がやっと通れるくらいしかなく、警護しやすい地形です。
しかも、ここへのジグザグ道には、まるで関所のようなお堂がありました。
今も昔も、ここに居れば通行人をすべてチェックできるでしょう。
急勾配のジグザグ道を見ながら、ここへ落ちのびてきた人たちは、
たとえば平家の落人、もっと突っ込めば「御所」で護衛すべき
複数の替え玉を含む安徳帝を奉じた人々の可能性もあると妄想しました。
なにげに「国の登録有形文化財」でした。
ここからは幹線道路へ出ず、山越えでほぼ同緯度の土々呂の滝へ。
その間いくつものお堂を目にしました。
古来、修験者や旅人たちの命を守ってきた場だったのかも。
滝音にひかれてやってきました。
けれど滝壺までは長い階段があり、雨で濡れて滑りやすいので
同行のM先生が撮影してきて下さいました!
うわぁ~~!! 滝音にふさわしい威容です。
ここから更に奥へと向かいます。
以前、友人から「仕事で行った神社が、人里離れた山の中なのに
あまりにも規模が大きくて驚いた」と聞いていたので足をのばすことに。
エッ?! 何ですか↑あの階段!!
そういえば、徒歩でしか上がれず大変だったと言ってました。
何度か私を乗せて演奏修行旅に付き合ってくれた健脚なのに。
ここまで来たのですから、私も登るほかないでしょう。
こ、これは巨大な屋根ですねえ…。
社殿の後ろは例によって断崖絶壁。
こんな大きな社殿を、どうやって山奥に建てたのでしょう?
下流でさっきの土々呂の滝となる川が見えました。
度肝を抜かれるとはまさにこういう状態かと思われますが、
静かにせせらぎの音を聴いていたら、突然けたたましく
17時を知らせるチャイムがなったので帰途につくことに。
ああ、あの橋を渡ってから長い階段を登ったのでした。
振り返って現社名を撮っておきましょう。
社名は照王神社でした。
「天照」なら日本中にありますが、珍しい社名なのに、
大滝山には西照神社もあったので関連があるかも?
と思い、やって来ました。
まるで要塞でしたね…。