藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

粟ノ国

催馬楽を学んでいた時、その語源の一つに
朝廷への貢物を馬で運んだとする説があり、
阿波なら麻、讃岐なら盾、出雲なら玉、紀伊なら木…というように
各国の特産品を管理・輸送することが忌部の職掌の一つだったと知りました。
 
渡来氏族の忌部は最初「忌部首(おびと)」を名乗り、
大和国高市郡金橋村忌部(現 奈良県橿原市忌部町)を本貫として
5世紀後半から6世紀前半頃にかけて地位を確立したと言われています。
 
なお中央の忌部氏記紀編纂当時、中臣氏(天児屋命)とともに朝廷の祭祀を司り、
祖神の天太玉命高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子であると主張したものの
古事記』や『日本書紀』に出自の記載はなく、真偽のほどは不明です。
 
壬申の乱大海人皇子につき、持統天皇即位の際に神璽の剣・鏡を奉じた
忌部首子人は、慶雲元年(704)に中臣氏とともに伊勢奉幣使に任ぜられました。
しかしその後、中臣氏の他氏排斥が強まって忌部氏の伊勢奉幣使補任が減り、
天平勝宝9年(757)6月、ついに中臣氏のみが担当することになったのです。
 
中臣氏の強権的なやり方に対し、
古代朝廷において「ケガレを忌む=斎戒」の祭祀を担っていたとの誇りからか
忌部氏延暦22年(803)忌部宿禰浜成の申請で漢字を「斎部」に改めました。
大同2年(807)には斎部広成が『古語拾遺』で中臣氏批判を展開したものの
忌部・斎部氏は中臣氏の勢力に押されて歴史の表舞台から姿を消しました。
 
それゆえ忌部の名は専ら出雲・紀伊・阿波・讃岐等に設置されていた品部を
掌握し物資を徴収した部民として残っています。
 
         出雲忌部=祖神は櫛明玉命(忌部五部神)・玉の貢納
         紀伊忌部=祖神は彦狭知命(忌部五部神)・材木の貢納
         阿波忌部=祖神は天日鷲命(忌部五部神)・麻布の貢納
         讃岐忌部=祖神は手置帆負命(忌部五部神)・盾の貢納
 
古語拾遺』は、上記のほかの忌部五部神に天目一箇命があり、
筑紫や伊勢などに鍛冶を担当する忌部がいたとしています。
 
また『古語拾遺』には安房に移住した阿波忌部が「安房忌部」になったとする
東遷神話が記されていますが、他の古代史料により完全に否定されています。
 
その忌部氏が麻を植えて建国したとされる阿波国
『阿波風土記(←ほんものですか?)
阿波國は上古 粟、長の両國に別たれ、長國の屯倉は那賀郡宮倉邑に設かれ、
粟國の屯倉麻植郡森藤村字春日免に設かれしにはあらざるしや、
(第13代)成務天皇の御宇粟長両國合して阿波國となりしならん。
とあるそうです。
風土記記紀の内容に合わせて訂正加筆されており、阿波を建国したという
忌部氏の台頭が6世紀前後なのですから「成務天皇」はあり得ませんね…。
 
屯倉大化の改新(646)で廃止されたため、阿波国ができたのはそれ以降?
Wikipediaを引用するとは恥ずかしい限りですが、
律令制において長国造の領域を含め令制国としての国が成立。和銅6年(713)
(第43代)元明天皇の好字令で地名を二字で表記するため阿波に変更」とあります。
 
6月3日、私は「長ノ国」の祖神 御間都比古色止命を祀る御間都比子古神社へ。
 
「粟ノ国」の祖神 大宜都比売命を祀る上一宮大粟神社へは昨年3月に行きました。
 
古事記』によれば、粟国=大宜都比売(別名:大粟比売神・八倉比売命)です。
大宜都比売は、伊勢国丹生の郷より神馬に乗り八柱の伴神とともに阿波国に移り、
粟を蒔いて国土を運営したとされます。
八柱の伴神はいずれも鮎食川沿いに鎮座しましたが、既に合祀された社もあります。
イメージ 1
一国開闢の祖神の本拠地たる大粟山は名西山分の諸山の総称で、
村は大粟谷、粟郷などと呼ばれたそうです。
大宜都比売命は粟凡直の遠祖で、その末裔が世襲で祭祀を行なっていましたが、
のちに小笠原氏が一宮大宮司として奉仕することになりました。
元々阿波国一宮であった上一宮大粟神社(名西郡神山町)が参拝に不便であるとして
平安時代後期に国府の近くに分社され、こちらが一宮になったと伝えられて
いますが、このあたりの事情は定かではありません。
 
歴史的事実としては、阿波国守護だった小笠原長房の四男小笠原長宗が一宮宗成を
滅ぼし、1338年(南朝=延元3年・北朝=暦応元年)にこの地に城郭を築いて移り住んだ上で
一宮神社の分霊を城内に奉祀したと言われています。
その後、小笠原長宗は一宮氏を称し、一宮城を居城として神職を兼ねたそうです。
この機に船盡神社の神宮寺だった大日寺一宮神社の前に移したのでは?
 
そんな一宮神社阿波国一宮「天石門別八倉比売神」の論社の一つだなんて?!
阿波国一宮ではなく、あくまでも一宮氏の一宮神社のように思えるのですが?
 
粟凡直一族には板野郡を直轄地とし、大麻比古神社に至ったとの説もあるようです。
大麻比古神社は忌部の象徴「麻」の神社のイメージが強いようですが、
本来の祭神は古くから大麻山に祀られていた猿田彦大神とされてきました。
ところが、
忌部氏享保14年(1729)と宝暦4年(1754)郡代奉行へ
猿田彦大神大麻山山頂にあったのを合祀しただけ…」と訴えるなど、
本来の主祭神は阿波忌部の祖神たる天日鷲命(あめのひわしのみこと)であると
主張して猿田彦大神を否定する努力を続けてきたそうです。
…で、現在は「大麻比古神=天太玉命(あめのふとだまのみこと)」なのだそうで、
天日鷲命天太玉命か、いったいどっちやねん?!
 
このような忌部氏の努力が水泡に帰すような文献が見つかりました。
駿河国大朝神社の由緒です。
 
按阿波國大麻比古阿佐多知比古並阿田賀田須命
朝與阿田横音通又疑取田賀田之神名田方郡
 
上記では、大麻比古阿佐多知比古(朝立彦)も、大国主命六世孫で
大三輪氏と同族とされる阿田賀田須命も同列に扱われています。
それを私は大朝神社の表記に象徴される「朝日」の信仰と解釈しています。
日本古来の「ヒメ=ヒルメ」「ヒコ=ヒルコ」信仰が
「長ノ国の祖神=事代主=蛭子神社ヒルコ」へと繋がるのではないかと。
 
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腰之宮神社の扁額がかかっていますが、正式名称は葛倉神社なのだそうです。
神山町神領大埜地」という住所でわかる通り、「神山町神領西上角」鎮座の
上一宮大粟神社の近く(直線で670m)の鮎食川沿いに鎮座しています。
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ここで大宜都比売命が腰かけて休憩したため別名腰之宮(←何か隠してる?)となり、
大宜都比売命に同行した八伴神の一「葛倉明神」が祀られたそうです。
しかも驚くべきことに、当社は事代主神の元社と伝えられているのです。
こうなると、長ノ国も粟ノ国も事代主を祀っていたことになります。
 
本題に入る前に、上の残念な演奏画像について説明します。
イメージ 4
2017年1月12日午前まで、鳥居に向かって左側にも「神山の名木」とされる
杉の木がありましたが、上の演奏画像にはありません…。
2017年1月12日午後1時前、突然、腰之宮神社境内の御神木が燃え始め、
出火位置が高かったため消火活動が難航し、根元部分から切り倒すことで
周囲への延焼を防いで、約5時間後に消し止めたのだそうです。
昔の形をとどめる神社が減ってゆくのは残念です。社叢は本当に大切なので。
 
では、古い文献を参考にダイナミックな(!?)謎解きを。
 
粟國造 都佐國造は同祖 粟凡直 長直も基本一系なりしを
属地に依て粟凡直 長直に分して異姓を称するなる可し。
天津羽羽神、阿波女神(大宜都比命)同神當阿波國十郡中
麻植、美馬、三好等を除き殘る七郡より土佐國をかけて皆本來人種は
此の神の氏人なり。八倉比賣大神の當國第一尊く坐す事を知る可し。
土佐國一宮、阿波國一宮は夫妻之御神也。
 
何と、粟ノ国も長ノ国も基本は一系であり、土佐国までもが同祖ですと?
しかも土佐一宮の味鋤高日子根命と阿波一宮の大宜都比売命は夫婦神!
これでスッキリしました。讃岐も阿波も歴史が忌部に覆われていたんですねぇ…。
 
味鋤高日子根命ハ阿波女神ノ御夫ニテ粟國造 粟直凡等之父神也。
名東 名西 板野 阿波 勝浦 那賀 海部等 七郡本來ノ人種ハ皆此神ノ氏子ナレハ
何レノ人モ詣テ來リテ此神石ヲ拝スヘシ
 
ここにも味鋤高日子根命(積羽八重事代主命)は阿波女神(大宜都比売命)の夫とあります。
そして『新撰姓氏録』の「長公は大奈牟智神兒、積羽八重事代主命之後」で
長く隣国だった長ノ国と粟ノ国に敵対した形跡がないことの裏づけがとれました。
 
謎解きの旅の最後、徳島駅へ向かう途中、役小角の創建と伝わる建治寺(真言宗)へ。
役小角とは?! また意味深ですねぇ…。
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さすが徳島のタヌキです。車が近づいても動じることなく不動霊場を目指します。
毛並みも体格もよくて思わず見とれてしまいました。