藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

常陸国の先住民と寺社改革

やっと宗教と政治が不離・不可分の関係にあったらしいと理解できました。
そして水戸家が断行した寺社改革が明治維新後の神仏分離につながったことも。
 
徳川光圀(1628-1701)が寺社改革に着手したのは寛文3年(1663)
最初に領内の村ごとに開基帳の作成を命じたそうです。
その開基帳に記された寺社は2,377
寛文5年(1665)に2人の寺社奉行を任じ、翌年から寺社の破却・移転を断行。
その年に処分された寺社は1,098で、実に46.1%に及んでいます。
神社に関しては、社僧を別院に住まわせるなどして神仏分離を徹底させました。
 
○○大権現なんて、許されるはずがありません。
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こちらも同じような石碑でしょうか、それとも墓石でしょうか?
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境内社までこんな悲惨な状況に!?
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このように水戸市とその周辺には見るも無残な神社が少なくありません。
理由は明白。
縄文時代のように祖先を神として祀っていれば人心が離れることはないでしょう。
しかし、祖神を無関係な神に差し替えられた上、掃除や修繕を命じられても困る?
 
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コレ、左右とも上部が欠落していると思われますが?
下に何か落ちてますよね?もしかして誰かがわざと落とした?
 
そもそも神社は廃棄物を積んでおく場所ではありません…
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不要と判断された神社は"呉越同舟"状態でまとめられてしまったようですが?
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こんな風に↓倒れても誰も起こしてあげない!?
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ここまで人心の離れた神社の数々を見た経験はありません。
水戸藩が推進した寺社改革の影響と考えるべきでしょうか?
 
もう一つ水戸の特徴として挙げられるのが「谷」の多さ。
道を切り開く財源が不足していたため自然の地形を生かして町を造ったのだとか。
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MapFanなどの指示通りに進んでいたら、突然「谷」に遮られてしまい、
目的地が見えていても越えることができません。
それだけならよいのですが、こういう場所に「鬼」を追い込んで征伐した?
との疑念が湧き、背筋が寒くなってくるのが困りもの…。
だって、この神社「角折(つのおれ)」って社名だったんですよ!?
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鳥居のすぐ右手に谷へと下る獣道があり、本殿の奥までぐるりと谷に
囲まれてました。社殿の最奥から下の谷を見ると、
なぜこんな急峻な崖の上にわざわざ社殿を建てたのかとの疑問が湧いてきます。
 
常陸国風土記』「行方郡」の項に那珂国造となった建借間命が登場します。
常陸国はまだ誕生していません。
以下は、新治・筑波・茨城(うばらき)・那賀・久慈・多珂の小国に
朝廷から造(みやつこ)や別(わけ)が派遣された時代の建借間命の活躍ぶりです。
 
 昔、斯貴瑞垣の宮に大八洲知ろし食しし天皇(崇神天皇)の御世に、東の国の荒ぶる賊を言向けんとして、建借間命(たけかしまのみこと)が遣わされた。
 二人の国栖(くず)、夜尺斯(やさかし)と夜筑斯(やつくし)は、賊の長となり、穴を掘り、小城を造って、そこに住んでいた。
 官軍を見るとこそこそと抵抗し、建借間命が兵を放って駆逐すると、賊は一斉に小城に逃げ帰り、門を固く閉じて立て篭もった。
 すぐさま建借間命は計略を立て、勇敢な兵士を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って渚に並べ整え、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、天の鳥琴(とりごと)・天の鳥笛(とりぶえ)を波の音と調べ合わせて潮と流し、杵島(きしま)ぶりの歌を七日七夜歌い踊り、遊び楽しんだ。
 その楽しそうな歌舞を見聞きしようと、賊どもは家族も男女も揃って出て来て浜辺に群れて楽しみ笑った。
 建借間命は、この間に騎兵に彼らの小城を封鎖させて退路を断ち、背後から一斉に襲って捕らえ、火を放って滅ぼした。
 
先住民が朝廷に滅ぼされた歴史は日本の各地で語り継がれています。
古事記』においては「尾(を)生ふる土雲(ツチグモ)八十建(ヤソタケル)」、
日本書紀』では「大和国の新城戸畔等の土蜘蛛が帰順せず討たれた」。
摂津国風土記逸文には「恒に穴の中に居り。故、賤しき号を賜て土蛛と曰ふ」、
越後国風土記逸文には土蜘蛛の後裔とされる八掬脛(ヤツカハギ)が出てきます。
 
ヤツカハギは『常陸国風土記』にも
「古老曰く、昔、土地の言葉で都知久母(ツチクモ)または夜都賀波岐(ヤツカハギ)
いふ国巣(クズ)が居り、その国巣に山の佐伯・野の佐伯がいた」とあります。
 
このほか行方郡だけでも
「提賀(テガ)」の里は昔この地に住んでいた「手鹿(テガ)」という名の佐伯にちなみ、
提賀より北の「曾尼(ソネ)」の村は昔ここに住んでいた「そねびこ」という佐伯
名前から付けられた等々、枚挙にいとまがありません。
 
「茨」で編んだ網で先住民を縛り殺したことを語源とする「茨城」だけに、
「葛のつる」で土蜘蛛を縛り殺したため高尾張邑の地名を剥奪して付けられた
「葛城」と同じく、土蜘蛛の伝承や蜘蛛窟が多いのでしょう。
 
現状を見に行きたいなぁと思っていますが、タクシーが拾える場所でもなく
バイクで行くには遠い…と二の足を踏んでいるところです。