藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

すたち(月出里)すだち

次なる難題は「月出里」です。
謂われに諸説あり、よくわからないためスルーしてきました。
ただ、「紀(き)の国」の先住民を考えようとするなら素通りできません。
とりあえず、情報を整理確認するため、足を運ぶことにしました。
 
常陸国風土記筑波郡(つくはのこほり)
古老の曰へらく、筑波の県(あがた)は、古(いにしへ)紀の国と謂(い)ひき。
美万貴(みまき)天皇(すめらみこと)の世(=崇神天皇の御代)采女(うねめのおみ)の友属(ともがら)
筑簞命(つくはのみこと)を紀の国の国造(くにのみやつこ)に遣はしし時、筑簞命の曰(い)ひしく、
「身(わ)が名をば国に着けて、後の代に流伝(つた)へしめむと欲(おも)ふ」といひて、
即ち本(もと)の号(な)を改めて、更に筑波(つくは)と称(い)ふといへり。
 
ヤマト王権から国造が遣わされる以前、
今の筑波地方は「紀の国」と言い、そこに住んでいた人々は
天の鳥琴と鳥笛で伴奏される「杵島ぶりの歌舞」を知っていました。
 
常陸国風土記』行方郡(なめかたのこほり)
建借間命(たけかしまのみこと)、兵を縦(はな)ちて駈追(おひやら)ひしかば、
(あた)(ことごと)ににげ還り、堡(とりで)を閇(と)ぢて固く禁(まも)りき。
(にはか)にして、建借間命、大きに権議(はかりごと)を起こし、
敢死之士(たけきいくさびと)校閲(すぐ)り、山の阿(くま)に伏せ隠し、
(あた)を滅さむ器(つはもの)を造り備へて、厳(いか)しく海渚(なぎさ)に餝(かざ)り、
船を連ね、栰(いかだ)を編み、雲のごとく蓋(きぬがさ)を飛(ひるがへ)し、
虹のごとく旌(はた)を張り、天(あめ)の鳥琴天の鳥笛、波の随(まにま)に潮を逐(お)ひて、
杵島唱曲(きしまぶり)を七日七夜、遊び楽(ゑら)ぎ歌ひ舞ひき。
時に賊(あた)の党(ともがら)、盛(さかり)なる音楽を聞きて、房(いへ)(こぞ)りて男女(をとこをみな)
悉尽(ことごと)に出で来て、浜傾かして歓咲(ゑら)ぎけり。
建借間命、騎士(うまのりひと)をして堡(とりで)を閇(と)ぢしめ、後(しりへ)より襲ひ撃ちて、
(ことごと)に種属(やから)を囚(とら)へ、一時(もろとも)に焚(や)き滅(ほろぼ)しき。
此の時、痛く殺すと言ひし所は、今、伊多久(いたく=潮来)の郷(さと)と謂ひ、
(ふつ)に斬ると言ひし所は、今、布都奈(ふつな=潮来町古高or稲敷郡古渡)の村と謂ひ、
安く殺(き)ると言ひし所は、今、安伐(やすきり)の里と謂ひ、
(よ)く殺(さ)くと言ひし所は、今、吉前(えさき=潮来町江崎)の邑(むら)と謂ふ。
 
これまでも何度か書きましたが、「杵島ぶり」は佐賀県杵島郡から出たと考えられ、
佐賀県三養基郡基山町の「基肄城(きいのき・きいじやう)(665)も「(杵・基・紀…)」です。
この「」の人々が、ハタ王国ができる前の国東半島から瀬戸内海を経て
紀伊国へ移動したとの説があります。
その象徴が、景行朝の初年、紀直(きのあたひ)の女を母として紀国で生まれたという
武内宿禰で、巨勢(こせ)・平群(へぐり)・葛城(かづらき)・蘇我(そが)氏らの祖とされています。
 
常陸国風土記』にある、いにしえ「紀の国」とされた筑波郡のある常陸国
「杵島ぶり」におびき出されて抹殺された人々の本貫が「杵紀」で
あった可能性を探るべく、常陸国下総国を走ってきたのは、
常陸国で北部九州の海人族の伝統楽器 5絃のコトが出土しているためです。
常陸国風土記』にある「天の鳥琴」とは恐らくこの 5絃のコトでしょう。
さきたま古墳群など関東の他の地域からは 4絃のコトしか出ていません。
北部九州の 5絃のコトは「ヤマト王権に先行する日本固有の楽器」ゆえ
「杵島ぶり」や「杵紀」に固執している次第です。
 
さて、「ヤマト王権に先行する葛城王朝の祖神」として蘇我氏が奉斎した造化三神
辞書に「『古事記』で天地開闢(てんちかいびゃく)のときに高天原(たかまがはら)に出現した
天御中主(アメノミナカヌシ)高皇産霊(タカミムスヒ)神皇産霊(カミムスヒ)神」とあり、
その造化三神を祀る神社に天之宮大神皇産霊神社高天神社…等がありました。
日本神話は
タカミムスヒが諸神に命じて天岩戸に隠れたアマテラスを復活させ、
カミムスヒが殺されたオホナムヂを蘇生させた設定になっているのだとか。
「ムス(生す)」+「ヒ(霊)」=「ムスヒ」の働きで万物が生じる
というのが神道の重要な観念の一つなのだそうです。
 
神道で霊的な働きをあらわす「ヒ」。
これが今回のテーマ「月出里」を解くカギになるかも!?
 
いま「すだち」と読む「月出里」は、かつては「月出」と書いて
「すたち」と読む「月出村」だったそうです。
それが村名から大字(おほあざ)名になるとき「里」を付けたのだとか。
さらに中山満葉著『筑波地方の地名の由来』に
「月出里の『月出』は『朏(ひ)』のこと」だと書かれていました。
 
朏の訓読みは「みかづき」。
なぜ、それが「すたち」になったのでしょうか。
 
なお「すだち」地名はもう一つ、宮城県牡鹿半島にあります。
石巻市鹿立(すだち)、こちらも有名な難読地名です。
近くを走る「金華山道」や「女川牡鹿線」を南下すると「おしか御番所公園」。
金華山へ行きたくて、ここを通るルートを検討していました。
 
「鹿」のつく地名は、鹿島神宮のある鹿嶋市のように
北部九州の志賀の海人たる安曇族などと深い関わりを持つ
場所が多いことで知られています。
牡鹿半島のように「鹿」が付く地名には、倭人系海人の
安曇族と関係していることが多いんです。
安曇族の拠点は志賀島。鹿が多く生息する九州の博多湾に位置する島です。
そこから日本中に氏族が散っていくのですが、彼らが住み着いた地域に
建立された神社には、「鹿」の字が付いていると言われます。
じつは牡鹿半島の「鹿」も、それと関係してるのではと僕は睨んでいます。
と書いています。
すると、いわゆるズーズー弁で「シカ」が「スカ」と訛ると
「ス(カ)立ち」になる可能性はゼロではなさそうです。
 
ちょっと待って下さいよ。
北部九州の海人族なら「シカ・スカ・ソカ・サカ」ですよね?
対馬で「佐賀」という地名を濁らず「サカ」と発音していたのを鮮明に覚えています。
 
常陸国筑波郡すなわち「紀の国」の場合、「スカ・ソカ」氏の古墳がある地域では
そのまま「スカ・ソカ」が立つ意味から「スたち・ソたち」となりそうです。
稲敷市月出里の「すたち」に来た人々は、どこを出立してきたのでしょうか?
 
まさに古代の「紀の国」、つくば市吉瀬(きせ)(みかづき)神社がありました。
「きせ」とは「」の国の瀬、また意味深な地名ですね…。
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扁額の表記は「朏神社」で、地図上は三日月神
もちろん発音はどちらも「みかづき」です。
「月出」とは「朏」の字を分解したものにほかなりません。
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社殿の裏側へ廻り込むと「吉瀬三日月囃子保存会」と掲げられた櫓がありました。
ただし現在の朏神社は、とても古代からあったとは思えない位置にあります。
まるで月出里(すだち)の村人たちがここからったと教えるためにあるようです。
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振り向くと「吉瀬東古墳群」のある台地が見えました。
朏神社から東100mほどの距離で、現在は鹿嶋神社が建っていますが、
私はもともと朏神社が鎮座していたのではないかと妄想しています。
月出里にも鹿嶋神社があり、それは『常陸国風土記』にあるように
先住民を征伐したのが鹿島香取の皇軍であったことと矛盾しません。
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「吉瀬東古墳群」のある台地へ上がってみます。
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たしかに神社がありました。
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しかし…社殿に向かって左手の古墳群の説明板が「加島神社」?!
なぜ訂正しないんでしょう? まさか誰も気づかないはずはありませんよね。
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扁額はたしかに「鹿嶋神社」でした。
北側に前方後円墳とあったのでバイクを走らせました。
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あれ? あっけなく24号線(土浦学園線)に出ました。
この道を通すために古墳群が分断されたということはないのでしょうか?
それとも北端のこのこんもりが前方後円墳なのでしょうか?
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社殿左側の古墳群は、台地の南部~南西部となります。
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これほど整然とした"呉越同舟"も珍しいですね…。
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今日はこのキャノピーで月読宮二十三夜尊、月出里の鹿嶋神社をまわります。
 
(みかづき)神社とくれば月讀信仰。
明治以前は神仏習合なので、次の月読宮二十三夜尊も同じ月讀信仰と考えています。
ツクヨミとは日本神話に登場する月の神で、イザナキ・イザナミの子として
アマテラスの次、スサノヲの前に生まれたという設定になっています。
ところが、あまりにも出番が少ないことから、ツクヨミとスサノヲを一神とする
説すらあるそうです。ともにアマテラスの怒りを買って追放されたからでしょうか。
 
日本で千年続いた神仏習合(混淆)で言えば、
アマテラスの本地垂迹大日如来 or 十一面観世音菩薩でした。
本地垂迹とは、神の本地(真実の身)は仏であり、仏が日本人を救うために神となって
垂迹(仮の身)したという神仏習合思想の理論です。
それが、ツクヨミの場合は阿弥陀如来、スサノヲの場合は牛頭天王薬師如来
熊野権現阿弥陀如来とされています。
そもそも日の神たるアマテラスに対し、ツクヨミは夜の国、スサノヲは根の国
治めることになっており、役割が二分割されていたことがわかります。
 
すなわち敗者の象徴たるツクヨミとスサノヲを蘇我氏が祀っていたのは、
日本神話が実際の歴史に基づいてつくられていたことの証明でもあります。
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近くを桜川が流れていました。
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河口に向かって下ってゆき、土浦駅の南で常磐線を越えて「小松二十三夜尊」へ。
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このコンクリート舗装のガタガタ道を登ってきました。途中、階段の参道もありましたが。
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またしても裏参道から来ましたが、これが井戸なら御神体より貴重ですね。
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井戸の向こうに「大日堂」があり、その横にさっき見た階段からくる道がありました。
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そして125号線から上ってくる表参道と、3つの参道がありました。
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北に見える市街地は埋立地ではないかと思われます。
古代はこの台地の下まで霞ケ浦が迫り、河口の重要な見張り台だったのでは?
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有り難いことに文化財が紹介されていました。
「小松二十三夜尊」の境内に月読神社があると書かれており、
勢至菩薩との神仏習合だったとわかりました。
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画像左の建物が「月讀尊」でしたが、逆光でちゃんと撮れていませんでした…。
ここ土浦市小松から稲敷市月出里までは30分以上かかります。
せっかくなので今まで通っていない道を迂回しつつ行きます。
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うっわぁ…三度目の「追原」ですよ!?
「安く殺(き)ると言ひし所は、今、安伐(やすきり)の里と謂ひ」という『常陸国風土記』に
倣えば、「先住民を征伐して追っ払ったから追原(おっぱら)」ということでしょうか?
この交差点の近くに、蘇我氏が奉斎していた可能性のある皇産霊神社があって
前々回(6/17)、君島の鹿島神社からの帰途、わざわざ探して2枚撮影したのに
間違って消してしまったらしく、再訪することに。
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この三角州(?!)の左手にとってつけたような社殿があります。
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謂われはわかりません。しかし、私はここから真東(北緯36.01)1.5kmに鎮座する
蘇我氏の本拠地たる石川の鹿島神社の地から追っ払われてきたと妄想しています。
 
ここからは、前々回気になっていた阿見町塙の鹿島神社経由で月出里へ向かうことに。
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このあたりなのですが、「塙城址(北の郭)出入口」の標識が。
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振り向くと…、え? もしかしてここを登るんですか…。
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ガタガタ道を登ってきました。
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あ……これは無理です。怖すぎます。
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やっとこさ、キャノピーを方向転換して下りて来たら「順路」ですって?!
お城マニアの方々は、こんな道なき道を歩かれるんですね…(尊敬!!)
6/17のルートを逆走しているようで、君島天神の送電塔まで来ました。
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6/17も6/21もカメラがおかしくなって、振動で何十枚も撮影されたり
色の設定が変わったりしてました。比較してビックリ!?
 
この先を左折して、あとは直進すれば月出里の鹿嶋神社だとわかっていたのに
途中で「左折です」と言われ、咄嗟にハンドルを切ってしまいました。
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阿見町史』によれば「この地は旧江戸崎本道と木原方面へ続く馬の背道の
合流地点であり、当時は軍事・交通上共に重要な位置を占めていた」とのこと。
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「長さは850mで、高さ約3m幅8mで、深2m幅8mの堀と低土塁を伴っている」とあります。
ちなみに美浦トレセンの近くまで行ってました。
ここから引き返し、約10分後に月出里の鹿嶋神社着。
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階段は50段ほどですが、駐輪スペースがありません。
太タイヤにカスタマイズしているため、ノーマル車より幅が広いのです。
いつものように裏参道を探すため裏山へ入りました。
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いったん通り過ぎましたが、遠ざかってしまったため、
途中のお墓の中を通ってみることに。
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残念ながら、この先、行き止まりだったので、約10分後に鳥居まで戻りました。
できるだけ歩行者の邪魔にならないよう端に停めて階段を上がります。
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結局、わずかに見えている鳥居の脚付近に停めました。
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階段の中頃から、マスク越しに物凄いカビ臭が!?
アレルギー体質なので、かなり迷いましたが、わざわざ来たので入りました。
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左手の道は、さっきの行き止まりに繋がってるとして、
右の道の奥にある低い祠のようなものは何でしょう?
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大元が月讀信仰で、現社名が鹿嶋神社、そこに「大六天」ですか…。
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臭いはきついし、不気味だし、絶対に演奏修行したくない場所でしたが、
こわいと感じることがオカルトっぽくて嫌なので社殿前に座りました。
終わったら一目散に階段を下りました。
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このとき18:13。当然ながら日没までには帰宅できません。
鎌倉街道を走っていたら左に熊野神社があったので左折しました。
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すぐ目にとまったので撮りましたが、紫陽花の一種でしょうか?
否、ボタンクサギ(ベニバナ臭木)ではないかとのことです。
観賞用に植えられたものが野生化し、林の中などに咲いているそうです。
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またしても右を左と言われ、ぐるっと一周したので反対から来ました。
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18:36なのでまだ明るかったものの、マダニや虫が怖いので素通りしました。
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ギョギョ?! 再び鎌倉街道に戻ったら目の前に牛久大仏!!
南を向いてるんですね…西方浄土じゃなく(西方浄土が西にあるのかどうか知りませんが)
こわい。ビックリした。私は偶像と鳥居と社殿が本当に苦手なんですね…。