藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

行方の国栖

以前、なぜ「富士筑波」と並び称されるのかわからないと書きましたが、
やっと少しわかった気がします。
桜川市であろうが行方市であろうが、筑波山とともに走っているのです。
男体山・女体山から成る姿は見間違えようもありませんし、
古代から山アテに利用されてきたはずです。
行きに常陸利根川を渡った際、橋の真ん中で筑波山が真正面に見えました。
(が、停まって撮影する訳にもゆかず、渡ってからの画像↓)
イメージ 3
霞ヶ浦のめぐみと鉱物の眠る土地、朝廷が武力を行使して平らげた地域です。
 
2月10日は先ず大麻神社から。その名称から忌部氏かと思いきや…
朝廷が創った軍神「武甕槌命」「経津主命」が祭神でした。
イメージ 1
静謐…とはこういうことをいうのでしょう。何時間でも居たい場所でした。
もう由緒とか社殿とかは関係ありません。
近くに豬・鹿・狸・鯨などの骨や人骨などが出土している縄文の貝塚がある
(というか行方市には縄文の遺跡がとても多い)ということが重要です。
古代から人々が生活していたということは歌もうたわれていたわけですから。
階段を上って社殿を素通りし、社叢の外へ出ると、バイクを停めた道路から
バイクで登るには勾配が急過ぎる坂を通らないと到達できないことがわかりました。
イメージ 2
まだまだ奥に杜がありそうです。が、この台地の巨木の下で演奏…。
 
続いては蜘蛛窟なのでは? と思わせる「こんもり」の上にある厳島神社!?
イメージ 4
地図でみつけて行ってみたら、看板にこう書かれていました。
 
鎌倉時代初期、麻生三郎家幹は麻生城を築くに当たって、
城内に羽黒神社を創祀すると共に、
この地に盛土して浄め、厳島神社を祀り信仰した。
累代の城主は毎日早朝、本丸よりこの後堀に架けられた吊り橋を渡って
礼拝するのを常としたと伝えられる。
この地は当時、麻生城の一郭にあり北方要害の見張所でもあった。
通称、後堀弁財天(うしろぼりべんざいてん)という。
 
ん? なぜ、わざわざ「盛土をして浄め」なくてはならなかったんですか?
すぐ近くに大麻神社があり、毎日礼拝するほど祟りを恐れていたとなると、
武甕槌命」「経津主命」に討伐された先住民を埋めた塚だったとか。
そんなことを想像しなくても怖かったです。泣けてきました。
前日の雨で土がゆるくなっていたし、落ち葉や苔で滑るし…。
イメージ 5
10日はここの昇降に最も神経を遣いました。キツかったですね…。
 
ここから霞ヶ浦の右手を北上して「夜刀神」を目指したわけですが、
走っていると左側に側高神社が見えてきました。
側高? 香取神(経津主命)の構成要素の一つだったと読んだことがあります。
バイクを停めて歩くと、この神社は少し変わってます…。
イメージ 6
本殿の奥にまわって撮っていますが、この左(本殿の奥)に…
イメージ 7
巨大な御神木があり、鳥居の奥には石の祠があります。
近づいて扁額を見たら、「今宮神社」と彫られていました。
今宮」とは今来た神という意味なので、土着の国主ではありません。
では、どこから来た神なのか?
 
私が常陸国に興味を抱いた理由は「鹿島(かしま)=しかのしま」
志賀(鹿)の海人が移住・開拓した土地と言われていたからです。
関東で出土したコトは四絃。ところが、常陸国だけは例外的に五絃でした。
四絃のコトの文化圏たる関東で奏される音楽は東遊(あづまあそび)歌。
これは五絃の神楽歌とは全く異質の音楽です。
(神楽歌に「鹿さへづる聲」があります)
 
したがって、朝廷の創造神「武甕槌命」「経津主命」に制圧されるまでは
北部九州を拠点とする志賀の海人が住んでいたはず。
それなのに、現在の茨城県鹿島神社香取神社で塗りつぶされていて、
志賀の海人の痕跡が見つけづらい状況です。
 
そこに突如あらわれた「今宮神社」!?
この石祠の祭神はわかりませんが、私にとって「今宮神社」の祭神とは
かつて演奏させて頂いた志賀島にある志賀海神社鎮座「今宮神社」の阿曇磯良です。
石清水八幡宮の縁起『八幡愚童訓』に「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、
同社は創建以来、阿曇氏が祭祀を司っています。祖神ゆえ。
 
すると、行方市小高の側高神社は「経津主命」が海人族を制圧したのち
今宮神社の前に建てたという仮説が成り立ちますか?
 
常陸国風土記』にこうあります。
    郡より南へ七里のところに「男高(をだか)」の里がある。
    昔、この地に住み「小高(をだか)」と呼ばれた佐伯に因んで名付けられた。
    常陸国守 当麻(たぎま)大夫の時代に作られた池が道の東にある。
    池より西の山には草木が繁り、猪や猿が棲んでゐる。
    池の南にある鯨岡とは、古へ鯨が腹這いでやって来て息絶えた場所である。
    池の北には香取分祀した社がある。
 
これが今の側高神社でしょう。『新編常陸風土記』に「小高村側高明神
香取の摂社にして、風土記に小高香取神子の社」とあり、
『香取新誌』にも「この側高(鷹)香取の神子なり」と書かれているため。
 
思わぬ収穫を得て、意気揚々と向かったのは行方市行方の國神神社です。
イメージ 8
すっかり調子づいてきたのか、このカーブを下らずに左の農道に入りました。
ぐるっとまわりこむと、こちらが古来からの参道だったようです。
イメージ 9
常陸風土記』に「郡の東に国つ神あり。此を県(あがた)の祇(かみ)と号く」とあり、
白雉4年(653)の行方郡家創設と同時に郡社になったようです。
そして近年まで鳥居も拝殿も無く、結界と祠のみの神域だったと聞いていたのに
鳥居や本殿が建てられていました。
イメージ 10
皆様のお気持ちは素晴らしいのですけれど個人的には平成18年までに来たかった!?
 
という次第で、こののちは
尾のある人たちが吉野で奉斎していた勝手神社、さらに夜刀神社へ行き、
霞ヶ浦大橋へ向かう途で、手賀の荒原神社へ立ち寄りました。
常陸国風土記』にこう書かれていたためです。
郡より西北に向ふと「提賀(てが)」の里がある。昔、この地に住んでゐた
「手鹿(てが)」といふ名の佐伯を偲んで名付けられた。里の北に香島の神を分祀した
社がある。周囲の山や野は、土が肥え、栗、竹、茅などが多く繁ってゐる。
 
ほほう…「手鹿」とはまた。志賀(鹿)から移り住んでいた海人族の蔑称ですか?
小ぢんまりとした社殿の左右奥に広がる「こんもり」は、征服者の言う
国栖の蜘蛛窟を想わせる迫力がありました。妄想であることを祈るばかり…。
イメージ 11