だんだん様子がわかってきましたが、同時に疑問も増えてきます。
ただ、氏族はどちらが先に居たかが明白なので手掛かりになります。
最初に下毛野へ行った10/8に宇都宮神社が何社もあることを知りました。
宇都宮氏の家伝によれば
宗円(1033-1111)が下野国に下向して宇都宮座主になったのが始まりだそうです。
祭神も社名も異説が多くあってよくわからないと言われているようです。
11/12は七五三の御参りで駐車場は満車ながら、社殿の写真を撮るだけと言って
駐車料金を払って入れて貰いましたが、撮れたのは「女体宮」のみでした。
駐車場~本殿への道には晴れ着姿のお子さんたちが列んでいました。
もしかすると「女体宮」があったのは日光の「男体山」を意識してのこと?
男体山山頂遺跡から鎌倉初期には「二荒」と「日光」が併用されていたことが
わかる品が出土しているそうですね。
「日光」の字を当てたとの伝説もあるとか。
ともに下野国一宮を名乗りながら判然としないことばかりってどうでしょう…。
ただ、ここは下野国一宮とはいえ宇都宮の話です。
11世紀に宇都宮氏が誕生する前は?
との疑問から、壬生に興味をもちました。
壬生は申すまでも無く、律令制の成立以前におかれた壬生部から生じた氏族です。
崇神天皇(すじんてんのう)の後裔という壬生部公が載録されています。
ということで、先ずは壬生町の磐裂根裂神社へ。
しかし、このオブジェはいったい?
鹿沼市にも同名の磐裂根裂神社があったので行ってみました。
この新しい碑が無ければ社名も何もわかりようがない状態です。
この周辺は古墳密集地だったのに大正時代に消滅したとか書かれていましたが、
ちょうど社殿が向いている100mほど先に判官塚古墳がありました。
なぜなら、Google Maps が日枝神社、MapFanが産王神社だったからです。
まるで蜘蛛窟のようなこんもりに小さな祠が鎮座していました。
まだ何も明確にはなっていませんが、次回また宇都宮を訪れる予定です。
ほかにも日光との重要な接点があるため。
栃木ICから高速道路に乗ってからはずっとこの山に目を奪われていました。
あそこへ向かうんだと気づいたのは高速をおりてからでした。
二宮赤城神社で撮った看板を見ると、たしかに同じような形です。
次に三夜沢赤城神社。
おおお…「縣社」ですね。
16号大胡赤城線・上毛三山パノラマ街道ともに所要時間38分と出ました。
ところが!? 行けたのは赤城温泉までで、その先は冬期閉鎖中!!
GoogleMaps および MapFanの指示通りに走った結果がコレです…。
地元の方は御存知なのでしょうけど、どこかに大きく表示して下さいませ。
そこから引き返したので、38分+ロス20分!!
赤城山への道は遠かった…。
(ただし赤城山というのは太平洋プレートがオホーツクプレートに沈み込んでできた
島弧型火山の総称で同名の峰は存在しません。最高峰は黒檜山の1,828m)
ともあれ17:00に大洞(だいどう)赤城神社の駐車場着。
大沼からは祭祀に使われた古い鏡などが発見されており、古代から
さて、17時ジャストに赤城神社駐車場に着いたものの、
道も周囲も真っ暗だし、社殿も鳥居も見えません。
標高1,345mのカルデラ湖から1,828mの黒檜山(くろびさん)を仰ぐのみ。
(16:58に撮った薄霜のおりた黒檜山。或いは冠雪?)
帰宅後、現在の社殿は1,200年近く鎮座したとされる南畔から真北にあたる東畔の
さらに、江戸時代以降は徳川家康公を合祀し、葵紋が神紋の一つになっていて
元々の祭祀がどういうものであったのかが見えづらくなっています。
豊竈(とよへつひ) 御(み)遊びすらしも ひさかたの 天(あま)の河原に
ひさの声する ひさの声する
大沼の畔でこの神楽歌を演奏していると、
ここも「天の河原」の一つだったんじゃないかという気がしてきて、
この地で久しく奏される機会がなかったであろう海人族の歌が
カルデラ湖に響いたことに心動かされました(←私自身が演奏したわけですが…)。
これまでで最高の演奏修行ができたことに感謝感激。