藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

「香島の天の大神」への私見

香島の天の大神」についての私見
折口信夫博士の仰る「古代人の思考の基礎」が理解できているとの確信は
持ち合わせていないものの、大生殿神社は異様に映りました。
先祖の墳墓の上に何かを建てるというのはいかがなものでしょう?
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第一、彼ら自身の記録には、大同元年(806)大生神社を創祀とあるわけで、
ならば、5世紀乃至6世紀後半~7世紀後半に築かれた大生古墳群が
彼らのものであるはずがありません。
先住民の墳墓とすべきではないでしょうか?
 
こののち2/17に讃岐国(観音寺市)千尋神社へ行ったところ、
横穴式石室をもつ「千尋神社1~19号墳」の上ではなく、下に鎮座していました。
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常陸国のオフ氏の場合、ストレートな祖先神とはちょっと違うような気がします。
どうしても以前引用した『常陸国風土記』行方郡の記述と重なってしまうのです。
昔、斯貴瑞垣の宮に大八洲知ろし食しし天皇(崇神天皇)の御世、
東征のため建借間(たけかしま)命を派遣した。
建借間命が軍を率いて安婆島に造営し海の東の浦を望むと煙が見えた。
賊軍だと疑った建借間命は兵に命じて海を渡った。
賊の長は二人の国栖(くず)、夜尺斯(やさかし)と夜筑斯(やつくし)で、
穴を掘り、小城を造って住んでいた。
官軍にこそこそと抵抗し、建借間命が兵を放って駆逐すると
一斉に小城に逃げ帰って門を閉じ立て籠った。
建借間命は一計を案じ、勇敢な兵を選んで山の凹所に潜ませ、武器を造って
渚に並べ、舟を連ね、筏を編み、衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹と靡かせ、
天の鳥琴・天の鳥笛を波の音と調べ合わせて潮と流し、
杵島(きしま)ぶりの歌を七日七夜歌い踊って楽しんだ。
この歌舞を聞いた賊は家族も男女も揃って浜辺に出て群れて楽しみ笑った。
建借間命はここぞと兵に城を封鎖させ、背後から賊を襲って捕らえ、
火を放って滅ぼした。
痛く討つと言った所が今の伊多久(潮来)の郷であり、
ふつに斬ると言った所が布都奈(ふつな)の村であり、
安く斬ると言った所が安伐(やすきり)の里であり、
(よ)く斬ると言った所が、吉前(えさき)の邑である。
 
殺戮方法まで詳述されたこの項は頭からずっと離れませんでしたが、
潮来から行方に至る神社をまわり、蜘蛛窟と思しき"こんもり"を見続けたことで
恐らく歴史的事実なのだろうと感じ始めました。
 
国栖と呼ばれ、賊とされた先住民たちはなぜ
うかうかと杵島ぶりの歌舞に誘われて出てきたのか?
 
この一点に着目してきました。
杵島と言えば有明海に面した佐賀県杵島郡
その白石町堤国に杵嶋神社があります。
 
そして『常陸国風土記』の「筑波郡」の冒頭には
「筑波の県は、昔、(き)の国といった」とあるのです。
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の国とは↑基肄城(きいのき)があった佐賀県はもちろん、往古は大分県に至る
勢力を持ち、秦王国となる前の国東半島をも治めていたと言われています。
 
すると、の国の人々は北部九州の海人族だった可能性があります。
北部九州の海人族の楽器は五絃のコトでした。
それが常陸国で出土しているわけですから
常陸国に北部九州の海人族が居たことは間違いありません。
それゆえ彼らは遠い故郷の杵島ぶりの歌に誘われて出てきたのでしょう。
彼らこそが大生古墳群の主だったのではないでしょうか?
 
そうでないと、大同2年(807)多神社の祭神を勧請して創祀した「大生宮」を
遷座させたはずの「いまのかしまの本社」の祭神の説明がつきません。
祭神を「香島の天の大神」とする鹿島神宮は名前の由来を神使いの鹿だと言います。
北部九州の志賀海神社も海を泳いで渡る鹿を大切にしていました。
また「キシマ」と「カシマ」を同義とする説まであるようです。
杵島(きしま)の郡(こほり)。郷(さと)は四か所、里(こざと)は十三 (うまや)は一か所。
昔、景行天皇が各地を巡られた時、船がこの郡の磐田杵の村に停泊された。
ある説に曰く、船が停泊した所が自然と嶋になつたのを天皇がご覧になり、
従臣どもに『この郡はカシ嶋の郡と言ふがよい』と仰せになつた。
いま杵島の郡といふのは訛つたのである」とあります。
先住民が北部九州の海人族であったことはほぼ確実なのではないでしょうか?
 
他方、水戸藩による『常陸国風土記』の編集を疑問視する声も根強くあります。
水戸藩士 西野宣明は第九代藩主 斉昭の命で彰考館に伝わる『常陸国風土記』の
写本と他の伝本を編集校訂し、天保10年(1839)に水戸の版木屋から出版しました。
もっと過激な批判は、水戸光圀大日本史編纂事業のための資料収集の過程で
加賀前田家が所蔵していた『常陸国風土記』が見つかったことへの疑問で、
中には光圀が創作したのではないかとの噂さえあったと聞きます。
それだけ後世でなければ知り得ない情報が盛られているということでしょう。
 
そんな『常陸国風土記』の記述を引用するのは心許ない限りですが、
香島の天の大神」にまつわる箇所を引いておきます。
天の香島(鹿島)大神の住まう社は、東に鹿島灘、西に霞ケ浦を臨む広い台地にあり、
森や谷に囲まれて、ところどころに集落が連なっている。
社の南に郡家があり、反対側の北側には沼尾の池がある。
翁曰く、神代に天より流れ来た水がたまって沼となった。
この沼で採れる蓮根は、他では味わえない良い味で、病人が食べると
たちどころに病いが癒えるという。鮒や鯉も多い。
ここは以前郡家のあった所で、橘も多く、良い実がなる。
 
香島の天の大神」を構成した沼尾の名が出てきました。
香島郡の名は当地に鎮座する天つ大神の社と、坂戸の社と、沼尾の社の
三つをあはせて「香島の天の大神」と称へたことから付いた。
と『常陸国風土記』にありますが、池は今は無いようです。
坂戸に関する記述は見つけられていません。
 
ただ、社家の記録との整合性を考えると、
大和の多神社を奉じる一族が東国で大生・大野・意富氏を名乗り、先住民を平らげて
創祀した「香島の天の大神」が勅許を得たということなのでしょう。
 
香取の「フツヌシ」については、
天地の初め、草や木が言葉を語っていたころに、天より降り来たった神があった。
その名は普都(ふつ)の大神、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを
和めたため天に帰ろうと、身に着けていた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、
手に付けていた玉など全て、この国に捨て遺して行った。
という『常陸国風土記』の記述との関連を疑っています。
 
もっとも私のやるべき仕事は、杵島ぶりの歌とはどんな楽曲で
どのように演奏されていたのかを追究することなので
犯人探しに意味はないのですけれど。