藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

将門ゆかりの場所?

多摩川の源流は山梨県甲州市塩山の笠取山(1,953m)山頂直下にあり、
一之瀬川~丹波川から奥多摩湖へと注ぎ込むそうです。
そこから多くの支川と合流しつつ全長139kmの河川となって
多摩川東京湾へと流れてゆきます。
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今日は奥多摩町棚澤の鳩ノ巣渓谷へ行ってきました!
もちろん名物の釜めしも食べました~!!
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青梅線の車窓から「青梅マラソン」の様子を見ながら鳩ノ巣駅へ。
着いたら先ず「水神様」を目指しましたが、標識が裏返しだったため
曲がり角を通り過ぎて多摩川を渡ってしまいました!?
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橋の上から写真を撮りながら、あの巨巌が気になるなぁ…と感じたのが
水神様玉川水神社」が鎮座する岩でした。
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こういう、巨巌の上で演奏するのが大好きな私。勇んで登りました。
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てっぺんはさほど広くないため小ぢんまりとした祠でした。
いったい何世紀頃に祭祀が始まったのでしょうか?
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あの橋を渡ってみたいなぁ…と思いましたが、
すでに道に迷ってしまったため時間がおしています。
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取り敢えず私は演奏修業優先ということで、撮影はお任せしました。
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このように橋のみで結ばれた集落は十津川村や奥吉野でも見ました。
奥多摩の場合はそれが平将門伝説とつながっているようなのです。
 
いったん駅へ戻って、将門神社を目指します。
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今は↑あのように、道路をつけるために切り開かれ、
崖崩れ防止対策が施された山の中に鎮座しています。
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将門」という信号およびバス停の手前に↑案内板!? がありました。
これを見落とすと将門神社へは辿り着けません。
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一応「参道」と言うべきでしょうが、むしろ隠された神社という感じの
急坂をV字に折り返しつつ登ります。
新しいトレッキングシューズを履いてきて正解でした。
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しばらく進むと「登り口」の案内板が!? (かなり登ったかと思いきや…)
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進行方向に向かって左側に、突然、鳥居が出現しました!
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鳥居をくぐると階段が続いていて、途中に「はなれ駒 蹄太鼓」とありました。
こちらは将門が使っていた「繋ぎ駒」「九曜」紋です。
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イメージとしては、この地まで太鼓のような蹄の音を立てて逃げてきた?
逃げてきたのはもちろん将門ではなく、伝説上で将門の嫡男とされる良門でしょう。
 
将門神社の由緒をまとめてみました。
●かつて日本武尊が祭ったという「多摩八座」の一つ穴澤天神があった。
●その地に藤原利仁が八干戈命を祭って多名澤神社を建てた。
●さらに将門の嫡子将軍太郎良門が天徳年間(957-961)に亡父の遺跡を慕って
当地に足を運び、其肖像を彫刻して納めた。←伝説上の将門神社の創祀?
神社下(バス停の南)に広がる平地を将門の居住地「将門原(まさかっぱら)」と呼ぶそうです
●永正元年(1504)に領主三田弾正忠平次秀が豊穣を祈って神劔を納め
社頭を再修して総鎮守とした。
●江戸期には棚澤村東部地区の鎮守だったが、明治41年熊野神社(棚澤)に合祀。
●昭和50年に野村孝之氏を中心とした地域住民が社地を整備して再建。
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『新編武蔵国風土記』に
「多名澤」元「穴澤」といひしを、
音の近きによりいつとなく唱へかへたるものなりと傳へ云、
人皇五十代桓武天皇の御宇、延暦年中鎮守府将軍利仁陣中擁護の神なればとて、
八千矛の神を崇め祀れる所にして、則【延喜式】に載る所多磨郡八座の一なり
といへど、【神名帳】には穴澤天神とありと記されています。
 
社殿に向かって左側に階段がありました。
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階段よりも尖がり山(ピラミッド?!)の方が気になりましたが、
演奏中に階段を上って撮影してきて下さいました。
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かつて穴澤天神があったことを示す(?)石碑。
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「はなれ駒 蹄太鼓」をあらわす↑額絵?
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では、お暇いたします。
上りはきつかったので撮影する余裕もありませんでした。
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急な下りとはいえ、手すりがあって助かりました。
 
ここに将門神社がある理由、三田氏との関係について考えてみました。
 
「三田氏始め壬生吉志の姓たり」
「壬生吉志(みぶのきし)推古天皇15年(607)に設定された壬生部の管理のため
北武蔵に入部した渡来系氏族で、男衾(をぶすま)郡の開発にあたり郡領氏となる。
「壬生」は皇子の養育にあたる職掌を持ち、「吉志」は朝鮮の王を表わす
コニキシを語源とするとの説がある。
北武蔵には渡来人でつくる高麗郡が716年に、新羅郡が758年に設置されている。

ところが、棚澤の三田氏は平将門の後裔を名乗った。
『新編武蔵国風土記』に「羽村より西はすべて杣保(そまのほ)」とある。
「杣」とは山に関わる言葉で青梅地方はかつて「杣保」と呼ばれていた。
そこを支配していたのが三田氏だがその名が青梅地方に最初に登場したのは
正安2年(1300)、三田下総守長綱が勝沼の乗安寺を建てたとの縁起であった。
「三頭右巴」の紋を持つ三田氏は将門と同じ「九曜」「繋ぎ駒」紋を使用。
「三田氏は平将門の後裔にして、世々この辺に居住し、勝沼殿と称しけり、
往古の事はつまびらかならずといえど、代々鎌倉将軍家に属す」(武蔵名勝図絵)
との伝承がいつのまにか定着していった。
 
「壬生吉志」絡みでは
伊福部昭ファンに馴染みのあるタイトル『吉志舞(きしまひ)』がある。
吉志舞とは、神功皇后新羅から凱旋後の大嘗会で奏された舞楽
『北山抄』には高麗をはじめ安倍氏とともに吉志一族が吉志舞を奉したとある。
舞人は闕腋の打懸を着て甲冑をつけ、鉾を持って舞ったというが、
後に伝承が途絶えた。別名を「楯節舞」ともいう。
高麗系の渡来氏族とされる吉志は吉士・吉師・岸にも作り、
その吉志部を統括する伴部が安倍氏だったとする説がある。
 
他方、秩父地方では、秩父で生き残った将門一族が奥多摩へ移住したと
言い伝えられ、かつて将門神社秩父地方からの参詣者でにぎわったという。
江戸時代、将門神社秩父一帯にかなりの講中を有しており、
その人たちが三田神官家に泊まって「将門講」を行なっていたというのだ。
秩父将門神社を繋ぐ人物と言えば、壬生良門であろう。
 
秩父札所17番(1488年の「長享番付」では札所1番)実正山定林寺の伝説にこうある。
将門の遺児 壬生良門が狩りに来て、寺で雨宿りをしていた。
利口そうな坊主がいたので名を尋ねると、怒りっぽい性格の良門が以前
忠言に対して立腹し追放した林太郎定元の遺子だったので驚いて非を悔いた。
定林寺は、平将門の子孫 壬生良門の忠臣だった林太郎定元の墓があることから
その名がつけられたというもの。
 
壬生良門とは11世紀の『本朝法華験記』や12世紀の『今昔物語集』に登場する
人物の名で、実在したかどうかはわからない。
ただし、1300年に青梅地方に登場した「壬生吉志」の三田氏が
壬生良門を将門の嫡子とする伝説をつくり、自らその子孫と名乗ったとしたら
将門没後何世紀も経ってから平良門なる人物が誕生した理由に察しが付こう。
 
さて、青梅線・中央線を乗り継いで東京駅まで戻りました。
目指すは言わずと知れた大手町1-2-1にある将門塚です。
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両隣が工事中。地下鉄C4,5出口が封鎖中という状況下、都会の緑を発見!
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この由来より怖い↓色花!?
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やっぱり人工的建造物がこわい!! というより人の念に身震いしてしまいます。
 
ともあれ、久々の「やまとうたのふるさと」を無事に終え、ここで解散。
皆さんの和歌が集まったら、のちほどHPにUPいたします。