藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

義公と御岩

特急ひたちに乗ってます。
今日のテーマは義公すなわち光圀公です。
この御方、知れば知るほど面白くて(失礼…)深入りしそうです。
 
何しろ、鹿島神宮のご神体である要石の正体を見極めるために
掘り起こさせようとしたというツワモノ!?
(そもそもベースが朱子学なので神仏を信仰する気持ちがなかった…?)
 
水戸徳川家は、初代藩主 頼房の頃から古神道の流れを汲むという
吉田神道を庇護し、その思想に基づいた改革を行なったと言われています。
中でも二代藩主 光圀はもっと古い信仰体系とされる巨石信仰や
陰陽道に興味をもっていたらしく、陰陽神社までつくっています。
 
陰陽神社へ行ってみたかったのですけれど、3.11の大地震で頂上直下にあった
御神体たる陰陽の対になった巨石が崩れ、修復不能とのことで諦めました。
 
先ずは『大日本史』絡みの地へ行ってみようと思います。
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日立駅に着き、駅からガラス越しに海を見ました。
予約していたタクシーで御岩神社へ向かいます。
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おおお…大きくて新しい楼門(大仁王門)です!
楼門に架けられた「萬世泰國」の扁額を拡大してみたら平成のもので、
徳川斉正(1958-)氏の署名がありました。
それもそのはず、平成になって120年ぶりに再建されたのだとか。
 
縄文の祭祀跡もあるという御岩山ですが、江戸時代に水戸藩初代藩主
徳川頼房公が出羽三山を勧請して水戸藩の国峰と位置づけたのだそうです。
出羽三山とは神仏混淆修験道ではありませんか?
二代藩主 光圀公の寺社改革の対象にはならなかったのでしょうか?
それどころか光圀公はわざわざ水戸から遠い当地を選んで
大日本史』の編纂祈願を行なっています。
 
もしかして、ここが佐竹氏代々の墓所だったから?
 
佐竹氏の金山は佐渡・新潟に次ぐ産出量を誇っていましたが、
佐竹氏の秋田移封に伴って金鉱を採掘する技術や技術者が秋田へ移ったため
水戸藩では「金が石灰に変わった」と揶揄される惨状でした。
 
 目論んでいた収入が得られないのに佐竹の残影がちらつくのは真っ平御免?!
とばかり、水戸藩は御岩山一帯を佐竹氏の墓所から縄文以来の
この国の祭祀に触れられるテーマパーク(?)へと変身させていました。
御岩神社HPにある「御岩山総祭神188柱」は全国最多かも?
 
平成27年には、17世紀当時の宣伝ビラが発見されて話題になりました。
『御岩山』(1992 筑波書林)によれば、万治元年(1659)から宝永5年(1708)
50年間で約27,900両の収入があったそうです。
 
光圀時代の水戸藩の人口が約30万人。
御岩山の入山者数が50年間で380万人(一年平均 76,000人)ですから
財政の助けになったのではないでしょうか?
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かなり険しい道を登っています(↑ここは平坦な方)。表参道を通って
光圀公が『大日本史』編纂祈願をしたことで有名な賀毘禮(かびれ)神宮↓へ。
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雪があちこちに残っていました。
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裏参道は雪が解けてぬかるんでいる場所や凍ってツルツル滑る場所などあり、
下るのに注意と時間を要しました。この先に薩都神社が↓
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このシュールな、まるでプラスチックのような鳥居は何?
と思ったので、ブログにUPしていませんでした。
が、2017.9.23に元宮へ行ったので画像をUPしておきます。
 
薩都神社の社殿は、ずいぶん唐突に、しかもポツンと、鎮座していました。
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たらい回しにされた挙句、鳥居からは意外なほど距離のある不思議な配置に!?
 
再びタクシーで日立駅へ戻り、次は大津港駅へ。
大津港まで行ったのは、3.11に流されたのち復元された六角堂を見るためでした。
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五浦(いづら)の海はとてもきれいでした…。
 
実は浄蓮寺渓谷へ行きたかったのですが、遠いので浄蓮寺までで左折しました。
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浄蓮寺は858年に天台宗第三代座主 慈覚大師が創建されたそうです。
惚れ惚れするほど素晴らしい茅葺屋根のフォルムに見入りました。
 
そして本日の最終目的地花園神社へ。
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あれ? どこかで見たような楼門ですね…。
扁額の社名が無ければわからないほどです。
社伝によれば、
延暦14年(795)征夷大将軍 坂上田村麻呂が奥州下向の折、霊夢に導かれて創祀。
大同2年(807)4月、平城天皇から「山王大権現」の勅額を賜ったそうです。
貞観2年(860)には天長年間(824-834)に当社で修行した円仁(慈覚大師)
天台宗満願寺を再興または開基。
「花園山大権現」と呼ばれるようになったそうです。
 
慶長7年(1602)徳川家康が社頭領50石の朱印を寄進したほか、
歴代将軍が同朱印を寄せたというだけあって、
拝殿裏の石段の上にある本殿の右には「東照宮」が祀られていました。
 
不思議なことに、「花園山大権現」を立ち上げた円仁が自作した木像は、
光圀公が隠居した1690年に焼失しています。
花園山は修験道の「常陸五山」の一つで、佐竹氏とも縁が深かったとされて
いますので、さすが光圀公と言うべきでしょうか…?
 
常陸五山」とは、西金砂山・東金砂山・真弓山・竪破山・花園山を指し、
それぞれ坂上田村麻呂蝦夷征伐のとき参籠祈願し、
慈覚大師が山王権現の分霊を勧請との共通した起源をもっています。
真偽はどうであれ、各山が古来「宝の山」であったことはたしかです。
資源があるからこそ人が集まるのであり、その地を奪い合うわけです。
あまり気は進みませんが、五山とも見ておくべきでしょうか?
 
…と悩む私は、寺社は見るだけ…。花園川で演奏修行しました。
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さほど川幅もないのに水音が大きく、神楽歌のコトの手が波音を模していること、
神楽歌が海人族の音楽であることを強く感じながら演奏させていただきました。