あまり気の進まない場所、東海村へ行って来ました。
テロ対策強化してるらしいです…。
タクシーの運転手さんによれば、この辺りはずっと松林だったとか…。
時代はうんと違いますが、和銅2年(709)、この地に伊勢神を招き、
のちに神宮の内宮と外宮を配した神社があるというので見て来ました。
そうした由緒ほどあてにならないものはないことは承知しております。
ま、野次馬根性ですね⁉
東海駅から先ずは豊受皇大神宮へ向かいます。
が、ナビ通りに走っていたら、崖の上に神社があって入れませんでした。
豊受皇大神宮を御存知ない運転手さんが「裏に池がありますよ」と仰るので
「池の方へ行ってみて下さい」とお願いしました。
「駐車場はありませんね」と言って右を見ると鳥居がありました。
「それじゃあグルッと一周して駐車場を探しましょう」
一周して細い道へ入ったら、公園の上にありました。
突然、さっきの人気のない公園の池から噴水があがりました‼
ビックリですね~お金かかってますね…。
おお~真新しい社殿ですか?
ヒントはこちら。日本原子力発電株式会社↑
境内に点在している祠にも殆ど鳥居があります。
こんなに合祀されているなんて、怖いくらいですね…(呉越同舟?!)。
ここが社殿の真後ろです。
全てを載せきれないほどの合祀のやり方は、水戸光圀公の寺社改革を思わせます。
おお、これはまた…「伊勢神」と言いつつ、徳川家の紋ではありませんか?
おかげさまで繋がりました。
2年前に私は「阿字ヶ浦」へ行っています。
空海が「阿字観」からその地名をつけたのではないか?
と感じたためです。
水戸光圀公が「清浄石」と改名したのだとか。
タクシーの運転手さんに「清浄石」を見たいとお願いしていたのに
徐行すらして下さらず、アッという間に通り過ぎてしまったため
「清浄石 徳川義公」の石碑を見つけられませんでした。
その「阿字石」→「清浄石」に
御神体が流れ着いたとされ、そこは神磯とも呼ばれているそうです。
豊受皇大神宮の外宮に対し、こちらは内宮ということになっていますが、
「茨城一の宮」大神宮⁉
現代版「一の宮」を名乗ったわけですね。
⒊11で壊れた二基の鳥居も早々に修復されたとききます。
「一の宮」だけあって立派な社殿です。
しかし、ここへ辿り着くまでに、ちょっとした謎かけがあったんですよ!?
右端が大神宮の鳥居ですが、この手前に、左手にある村松山虚空蔵堂へ行く人に
対する大神宮の参道への進入禁止と駐車禁止が明記されていたのです。
ははぁ…明治の神仏分離令で、それまで神宮寺だった寺と神社がもめて
裁判にまで発展した例は少なくありませんからね…。
金刀比羅宮には存在していません。
「こんぴら信仰」よ、いづこ?
ということで簡単に経緯をまとめてみました。
・明治元年9月、松尾寺金光院の宥常が復飾改名し金刀比羅宮の宮司となる。
・松尾寺金光院の配下には真光院、万福院、神護院、尊勝院、普門院があり、
そのうちの尊勝院、普門院が神社化に強く反対した。
・強硬に寺院維持を主張した普門院宥暁が金毘羅大権現たる松尾寺の法灯を継承。
・その松尾寺が明治42年に金刀比羅宮に対し、「現金刀比羅宮の建物・宝物は
・松尾寺金光院の配下には真光院、万福院、神護院、尊勝院、普門院があり、
そのうちの尊勝院、普門院が神社化に強く反対した。
・強硬に寺院維持を主張した普門院宥暁が金毘羅大権現たる松尾寺の法灯を継承。
・その松尾寺が明治42年に金刀比羅宮に対し、「現金刀比羅宮の建物・宝物は
正統性はない。
展開されたであろうことは想像に難くありません。
いずれにせよ私はどちらかの駐車場でタクシーに待機して貰う必要があり、
大神宮の駐車場まで乗り入れる方を選びました。
駐車場で降りて参道を歩いていて気になったのは左側のこんもりでした。
参道を上がって左手を見ると「大神宮御神池」の標識が!?
しかし、この先、何の道標もありません。直進して着いた先が↓
ちょっと↑この「水戸八景」の地図を見て笑えました。
現在地の上にある表示は「茨城原子力センター」ですよ!?
今や、海も見えず松林も無い、とんだ景勝地です。
「大神宮御神池」は方向すらわからなかったので諦めて戻ることに。
あれま!? これはまたずいぶん立派な三重塔ですね。
下には虚空蔵堂の堂塔伽藍が見えます。
引き揚げさせたところ巨大な老木だったので虚空蔵菩薩像を刻み
安置したのが始まりとの伝説があるそうです。
しかしこれはあながち伝説とも言い切れません。
明治の神仏分離令により、現在は大神宮と日高寺に分かれていますが、
空海が勅命で当地を訪れた可能性があるからです。
ともに平磯の巨岩が怪光を発して村人に「伊勢神」を祀るよう垂示を与えたとの
現に光圀公は「五所明神」と「虚空蔵尊」を分離させて伽藍を修理。
貞享3年(1686)に虚空蔵尊を修飾したとすると、
大神宮と豊受皇大神宮を伊勢の内宮と外宮として配置したのも光圀公では?
と疑いたくなるわけです。
今回訪れた印象や由緒などを整理すると、
●貞享3年(1686)までに水戸光圀が「五所明神」と「虚空蔵尊」を分離。
豊受皇大神宮=外宮とし、大神宮=内宮とともに「伊勢神」を演出。
(いつのまにか「五所明神」が消えてる?!)
同じ由緒をもつ豊受皇大神宮は元禄11年(1698)まで別の場所にあったようです。
後者の候補地としては
平磯の「清浄石」から南西1.2kmの距離にある津神社か
南西4.2kmの距離にある宇賀魂神社が浮かび上がります。
いずれも豊受皇大神宮と同じ外宮の祭神を祀っているからです。
近々再訪して「清浄石」を特定し、両社を訪問してみなくては。
さて、ふしぎランドからタクシーに戻ろうとして
ふと三重塔の横を見たら村松山虚空蔵堂「奥之院」がありました。
正面ではあれほど差別化を徹底していたのに、裏はつながってた!?
いやはや…「新一の宮」と「新水戸八景」、しっかり拝見してきました。