藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

光圀と天妃

2月19日に花園神社へ行った折、信じられないことが起きました。
ちょっと常識に欠ける運転手さんで、私が川縁で演奏していた様子を携帯で
何枚も撮影していたそうです(きっと頭がおかしいんだと思われたのでしょう)
それを友人が心配し、降りる際に削除をお願いしましょうと話していました。
 
ところが、「最後に弟橘姫神へ行って下さい」とお願いし、
向かっていると思っていたら「着きましたよ」と言われた場所は磯原駅でした!?
「最後の弟橘姫神は?」と尋ねると
「時間がないと2人で話していたから駅に着けました」とのこと。
「我々は時間が押していて予定の電車に間に合わないから
タクシーで高萩まで行って特急に乗ろうと話していただけで
一度も行き先変更はお願いしていませんが?」と言って時計を見たら
予定の電車まであと2分あったので、諦めてタクシーを降りました。
 
どうも縁がなさそうなので、もういいか…と思っていましたが、
面白いデータを見つけたので、磯原を再訪することにしました。
 
高萩行きに乗ったので、乗り換え時間を利用して、駅近くの子安神社へ行くことに。
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あれ? 地図には子安神社と出ていたのに、行ってみると瀧神社でした。
千家尊福氏の揮毫は結構よく目にしますね。
♪ 年の初めのためしとて~の唱歌『一月一日』の作詞者でもあります。
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どう見ても子安神社瀧神社境内社に見えますが? 後で調べます。
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本来なら、この由緒書の向こうに真っ青な太平洋が見えるはず!! なのですが、
結構強い雨で視界がけぶり、眺望がありませんでした。
 
このまま高萩駅へ戻って電車に乗っても良いのですけれど、前回のことを考えると
磯原駅からタクシーに乗るのは危険だし、検索したら所要時間20分と出たので
そのままタクシーで磯原へ向かいました。
ところが雨で道が混んできて、どんどん所要時間が増え、電車の方が早い結果に!?
しかも上り方面は20分後を逃すと、1時間半の待ち時間です。
 
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鳥居をくぐって最初の階段を上る途中に早くも合祀された祠がたくさん!
太平洋に面したこの山の高さは21.2mで、茨城県で二番目に低いのだそうです。
その山いっぱいに合祀された近隣の神社群がありました!!
いくら財政が厳しいからって、水戸光圀の合祀・廃社政策は凄まじいですね…。
ぬかるんだ道を革のシューズでズボズボと歩き、階段を上りました。
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拝殿の裏にも祠があるようです。というか、3つに分かれて鎮座してる?!
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なんか…字体が(社名もだけど?)?!
 
何故わざわざ磯原を再訪したのかというと、面白い記載を見つけたためです。
水戸徳川家では義公と烈公が有名なようで常磐神社の祭神にもなっています。
その水戸藩九代藩主 斎昭が、二代藩主 光圀の方針を曲げていたのです。
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一説に、中国の僧「東皐心越禅師」(1639-95)が明朝から清朝へと替わる混乱期に
来日した際に持参した二体の媽祖像を、光圀が一体をここ北茨城の磯原に、
もう一体を大洗に祀って天妃山(てんぴさん)としたと言われます。
ただし「古頭」と呼ばれたほどの純日本主義者だった水戸斎昭(一橋慶喜の実父)
「天妃山」と地元民に親しまれた磯原と大洗の天妃神社の祭神を日本武尊の后の一人
弟橘姫を祀る弟橘比賣神社に変えたのです(しかし現在は天妃神が合祀されています)
 
神って、こんなに簡単に人に挿げ替えられてしまうんですね…。
 
別の伝承もあります。
水戸光圀(1628-1701)は水戸祇園寺の三世として招いた蘭山に、老棲の地として
水戸藩の領地だった小川(現 小美玉市)の浄賢寺の跡地を与えたそうです。
その地に「天聖寺」が創建された1707年、
88歳の蘭山が中国の民間信仰の女神「天妃尊」の像を持って小川の地へ移りました。
「天聖寺」に安置された「天妃尊」像は、蘭山が祇園寺の開祖「心越禅師」が
中国より持参した媽祖像を模して三体造ったもので、あとの二体は
北茨城市磯原の天妃山弟橘姫神と、大洗の弟橘比賣神社(天妃神社)に祀られたそうです。
 
「天聖寺」は残念ながら幕末に天狗党の棲家になって荒廃したのち、
明治3年6月30日の火災で焼失し、廃寺になってしまいました。
境内に↓この案内板が設置されています。
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さて、大慌てで磯原駅へ行ったら10分近く余裕があって拍子抜けしました。
(発車時刻まで20分しかなかったのに、どういう健脚ですか?私。走って上り下りし短い曲を演奏!?)
駅のホームで息を整えて、ゆったりと鈍行に乗って大甕へ。
3月16日に行った東・西金砂神社で72年に一度執り行われる磯出大祭礼の神輿が
約75kmを一週間かけて往復するという水木浜を見るためです。
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残念ながら、雨模様の景色しか撮れませんでした。
現在は社地を売り渡してしまったかに見える津神社
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光圀公はこの高台の神社にも天妃を祀ったらしいですよ…。
 
「華園山縁起」によれば、4月8日に東金砂山、西金砂山、真弓山の三社が
水木浜へ行幸するそうで、花園山は花園川の下流の磯原の亀升磯に、
堅破山は高萩市の石瀧稲村浜へ行幸するといいます。
アワビ採り漁師らの伝承では東・西金砂神社の72年ごとの日立市水木浜への
磯出大祭礼の際に金砂神社の浜降り祭の祭事が田楽鼻で行なわれるのは
田楽鼻の沖合い数百mの海中にある"ゴンゲンイソ"に神が現われたからだそうです。
その神は三兄弟または三姉妹とされ、真弓山の神と東西の金砂の神は姉弟で、
アワビの貝に乗って海上を旅して水木浜に上陸後、真弓山と東・西金砂山に鎮座。
 
今はこの小さな社一つとなってしまった津神社が太平洋を臨んでいるのは
恐らくその"ゴンゲンイソ"の方を向いているからでしょう。
 
こちらは↓今年1月22日に大洗へ行った際に通りかかった弟橘比賣神社です。
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大洗のこの弟橘比賣神社の由来に
「元禄3年(1690)4月6日に徳川光圀公が明の高僧心越禅師の持ち来った
天妃の像をここに祀り天妃山媽祖権現を創始した」とありましたが、
御老公はたしか神仏習合の権現を忌み嫌って寺社改革をしたはず。
詰まるところ日本を儒教の国にしたかったらしいのですが?
天保2年(1831)藩主徳川斎昭公の代に天妃像を引き上げ
御祭神を弟橘比賣命とし現社名に改めた」と明記されていました。