藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

常陸国行方郡と陸奥国行方郡

いまさら…という感じではありますが、713年5月2日に出された
畿内・七道諸国の郡・郷の名に好い字(漢字二字)をあて、郡内に産出する
金・銅・染色(顔料)・植物・鳥獣・魚・虫などは種類を詳しく書き、土地の肥沃程度、
山・川・原野の名のいわれ、また古老の伝える各地の伝承などを記録して報告せよ」
との元明天皇の詔によって編纂が始まった『風土記』は
現在、常陸国播磨国肥前国豊後国出雲国のみ写本が伝わっており、
ほかは他文献などに引用された逸文のみと言われています。
 
ところが和銅6年(713)に編纂が始まり、養老5年(721)に成立したはずの
常陸国風土記』の写本は
大日本史』編纂のために資料を蒐集していた水戸光圀公が
偶然、加賀藩江戸屋敷で発見したといういわくつきの代物で、
後世の創作(水戸光圀執筆!?)との見方さえあるというのです。
 
まさか…と思いつつ、確たる根拠も無いので触れずにきました。
それが、福島浜通りへ行ったことで見直しを迫られている気が…。
 
4/13は南相馬市原町区の桜井古墳粟島神社日祭神社相馬太田神社をまわり
多珂神社へ行ったところ、当社が東北の多賀神社の大元ということでした。
創建は不詳ながら、景行天皇40年(111)日本武尊が東夷平定の際
玉形山に勧請し、仲哀天皇7年(199)に芦野平(城ノ内)遷座したのだとか。
 
ここが「多珂=多賀」の大元なら、「常陸多賀」はどうなるんでしょう?
これといった古社も無いようですが?
 
常陸国風土記』によれば、
古代、相模国の足柄山より東の諸県は「吾妻の国」で、常陸という国名はなく、
新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の小国に朝廷より造・別が派遣されていた。
大化改新(646)の翌年に常陸国が設置されると現在の石岡市国府国分寺が置かれ、
新治・白壁(真壁)・筑波・河内・信太・茨城・行方・香島(鹿島)・那賀(那珂)・久慈・多珂(多賀)
の11郡が定められたそうです。
 
このうち幾つもの地名が現在の福島県にもあるのはなぜなのでしょうか?
 
福島浜通りの今回訪れた南相馬市からいわき市にかけては養老2年(718)
設置された石城国でしたが、ほどなく陸奥国編入され磐城郡となりました。
 
伊勢神社までが原町区で、少し南下した小高区に益多嶺神社がありました。
ところが行ってみると「甲子大国社」と大きく書かれています。
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この石段の向こう側(画像右端)益多嶺神社社殿へ上がる階段があり、左に↓
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ちょっと、これは…?! 人工的な磐の前に幣が立てられています!!
周囲に置かれているのは自然石を利用した墓石のようにも見えますが?
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この位置から振り向くと、池の奥に墓石のような自然石が幾つも立てられた
こんもりがあって、その上が益多嶺神社の社殿という配置がよくわかります。
 
帰宅後、益多嶺神社が気になって調べたら、相馬中村藩では文化12年(1815)
11代藩主相馬益胤(1796-1845)の命で渡邊美綱が行なった行方八社の調査では
益多嶺神社冠嶺神社とともに不明でしたが、文政2年(1819)の再調査の折、
大宮明神の祠官田代氏の甲子大国社益多嶺神社とする主張が認められたそうです。
相馬中村藩ではすでに5代藩主 昌胤(1661-1728)が水戸家と同じ吉田神道
帰依しており、ここでも寺社改革が行なわれていたわけですか…。
 
根拠が希薄な感じなので、諸国甲子講では江戸時代の益多嶺神社への改称を無視し、
延喜式神名帳収録以前から今日まで続く「甲子の御祖神甲子大国様」の
尊称を替えないことになっているようです。
 
なお、こちらは根拠が無いと否定する方もおられるのですけれど、
当社は中郷北原(現 原町市)に鎮座せるを応永2年(1395)大井に遷し、
三郡(宇多・行方・双葉)の総社として代々相馬氏の崇信をうけたともいう
との説があるようです。
 
では↓これは何? 神社が遷る前からあった遺跡なのでしょうか?
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参道を歩いていたら、右手の土手に隠されたような穴がチラッと見えたので
手を伸ばして撮りました。横穴古墳にしては入口が大きいような気がしますが?
こちらは社家の住居なのでしょうか? 地図によっては↑この建物が甲子大国社
この画像左手に位置する階段上の建物が益多嶺神社になっています。
 
私がなぜこの場所を気にしているかと申しますと、住所が「小高」だからです。
以前、「常陸国風土記」にある行方市の「小高」へ行きました。
 
郡より南へ七里のところに、男高(をだか)の里がある。
昔、この地に住んでゐた小高(をだか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた。
 
すると、現 南相馬市小高にも「をだかといふ名の佐伯」が住んでいた可能性が?
常陸国の行方郡と陸奥国の行方郡、常陸国の多珂郡と陸奥国の多珂郷、
おそらく常陸国から来た移民を中心に郡が建てられたのだろうというのが
現在の定説のようですが、ヤマト王権に攻撃された人々が北上し
開墾した地という可能性はないのでしょうか?
 
各地を歩いて古墳ではない蜘蛛窟を見てくると、このこんもりもまた
常陸国から逃れた先住民が「甲子」の年に陸奥国で再びヤマト王権に征討され
虐殺されてできた蜘蛛窟ではないのか…との恐れを払拭できません。
 
「甲子」は古代中国では天意があらたまり、徳を備えた人に天命が下される
「革令」の年で、変乱が多いとされてきたため、日本ではそれを防ぐ目的で
平安時代以降の改元はこの年によく行なわれたといいます。
現に桓武天皇は、天武系から皇位が移った
天智系の光仁天皇を継承したことで王統交代を意識し、
「革令」の784年(甲子)長岡京へ遷都しています。
 
小高での先住民虐殺が「甲子」の年にあったかどうかはわかりません。
ただ日本で「革令」があったことは歴史的事実です。
その上、2011年3月11日以降、もっと過酷な現実が…。
 
浪江町双葉町大熊町富岡町楢葉町広野町…と神社を見る余裕はなく、
通行禁止の道、塞がれた家々など、6年前との違いを説明していただきつつ
夥しい数の汚染土の袋を見ながら、17時前にいわき市に入りました。
 
いわき駅からの特急は沿線火災の影響で遅延&運休。ネット予約ができず、
高速に乗って水戸まで送って頂くことにし、1社だけ立ち寄って貰いました。
1社と言うのは正確ではありません。地図に2社並んで出ていたのです。
…で、行ってみたら四ッ倉駅近くの海の見える高台に3社以上鎮座していました。
 
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階段を上ると正面に見えるのが四倉諏訪神社
 
右隣に船玉神社
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更に右隣に出羽神社
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そのほか沢山の祠がありました。
こうした呉越同舟的神社は明治以降急増したわけですが、
そのことについてはまた日を改めます。
 
【追記】
行方郡鎮座 延喜式内社の筆頭たる多珂神社名神大社で、
全国でも珍しい伊邪那岐大神の荒御魂をお祀りする神社です。
と謳われていますが、
『奥相志』において「神体龕居顕拝を許さず」とあるにも拘わらず、
一時期は相馬昌胤が奉納した「白符の鷹像」を御神体としていたそうです。
それどころか現在も正月三が日の祈祷には吉田神道八角形の護摩壇を
使っているそうで、伊邪那岐神はどこへやら?
名神大社がこれなら末端の神社で祭神がわからないのは当たり前ですね。
 
しかし、相馬家伝来の妙見信仰はどうなったんでしょうか?
いっそのこと吉田神社と改称してしまった方がわかりやすいのでは?