いまさら…という感じではありますが、713年5月2日に出された
「畿内・七道諸国の郡・郷の名に好い字(漢字二字)をあて、郡内に産出する
金・銅・染色(顔料)・植物・鳥獣・魚・虫などは種類を詳しく書き、土地の肥沃程度、
山・川・原野の名のいわれ、また古老の伝える各地の伝承などを記録して報告せよ」
ほかは他文献などに引用された逸文のみと言われています。
後世の創作(水戸光圀執筆!?)との見方さえあるというのです。
まさか…と思いつつ、確たる根拠も無いので触れずにきました。
それが、福島浜通りへ行ったことで見直しを迫られている気が…。
多珂神社へ行ったところ、当社が東北の多賀神社の大元ということでした。
ここが「多珂=多賀」の大元なら、「常陸多賀」はどうなるんでしょう?
これといった古社も無いようですが?
新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の小国に朝廷より造・別が派遣されていた。
新治・白壁(真壁)・筑波・河内・信太・茨城・行方・香島(鹿島)・那賀(那珂)・久慈・多珂(多賀)
の11郡が定められたそうです。
このうち幾つもの地名が現在の福島県にもあるのはなぜなのでしょうか?
伊勢神社までが原町区で、少し南下した小高区に益多嶺神社がありました。
ところが行ってみると「甲子大国社」と大きく書かれています。
この石段の向こう側(画像右端)に益多嶺神社社殿へ上がる階段があり、左に↓
ちょっと、これは…?! 人工的な磐の前に幣が立てられています!!
周囲に置かれているのは自然石を利用した墓石のようにも見えますが?
この位置から振り向くと、池の奥に墓石のような自然石が幾つも立てられた
こんもりがあって、その上が益多嶺神社の社殿という配置がよくわかります。
帰宅後、益多嶺神社が気になって調べたら、相馬中村藩では文化12年(1815)に
11代藩主相馬益胤(1796-1845)の命で渡邊美綱が行なった行方八社の調査では
益多嶺神社は冠嶺神社とともに不明でしたが、文政2年(1819)の再調査の折、
大宮明神の祠官田代氏の甲子大国社を益多嶺神社とする主張が認められたそうです。
帰依しており、ここでも寺社改革が行なわれていたわけですか…。
根拠が希薄な感じなので、諸国甲子講では江戸時代の益多嶺神社への改称を無視し、
延喜式神名帳収録以前から今日まで続く「甲子の御祖神甲子大国様」の
尊称を替えないことになっているようです。
なお、こちらは根拠が無いと否定する方もおられるのですけれど、
「当社は中郷北原(現 原町市)に鎮座せるを応永2年(1395)大井に遷し、
三郡(宇多・行方・双葉)の総社として代々相馬氏の崇信をうけたともいう」
との説があるようです。
では↓これは何? 神社が遷る前からあった遺跡なのでしょうか?
参道を歩いていたら、右手の土手に隠されたような穴がチラッと見えたので
手を伸ばして撮りました。横穴古墳にしては入口が大きいような気がしますが?
こちらは社家の住居なのでしょうか? 地図によっては↑この建物が甲子大国社、
この画像左手に位置する階段上の建物が益多嶺神社になっています。
私がなぜこの場所を気にしているかと申しますと、住所が「小高」だからです。
郡より南へ七里のところに、男高(をだか)の里がある。
昔、この地に住んでゐた小高(をだか)といふ名の佐伯に因んで名付けられた。
すると、現 南相馬市小高にも「をだかといふ名の佐伯」が住んでいた可能性が?
おそらく常陸国から来た移民を中心に郡が建てられたのだろうというのが
現在の定説のようですが、ヤマト王権に攻撃された人々が北上し
開墾した地という可能性はないのでしょうか?
各地を歩いて古墳ではない蜘蛛窟を見てくると、このこんもりもまた
虐殺されてできた蜘蛛窟ではないのか…との恐れを払拭できません。
「甲子」は古代中国では天意があらたまり、徳を備えた人に天命が下される
「革令」の年で、変乱が多いとされてきたため、日本ではそれを防ぐ目的で
現に桓武天皇は、天武系から皇位が移った
天智系の光仁天皇を継承したことで王統交代を意識し、
「革令」の784年(甲子)に長岡京へ遷都しています。
小高での先住民虐殺が「甲子」の年にあったかどうかはわかりません。
ただ日本で「革令」があったことは歴史的事実です。
その上、2011年3月11日以降、もっと過酷な現実が…。
通行禁止の道、塞がれた家々など、6年前との違いを説明していただきつつ
夥しい数の汚染土の袋を見ながら、17時前にいわき市に入りました。
いわき駅からの特急は沿線火災の影響で遅延&運休。ネット予約ができず、
高速に乗って水戸まで送って頂くことにし、1社だけ立ち寄って貰いました。
1社と言うのは正確ではありません。地図に2社並んで出ていたのです。
…で、行ってみたら四ッ倉駅近くの海の見える高台に3社以上鎮座していました。
階段を上ると正面に見えるのが四倉諏訪神社。
右隣に船玉神社。
更に右隣に出羽神社。
そのほか沢山の祠がありました。
こうした呉越同舟的神社は明治以降急増したわけですが、
そのことについてはまた日を改めます。
【追記】
全国でも珍しい伊邪那岐大神の荒御魂をお祀りする神社です。
と謳われていますが、
『奥相志』において「神体龕居顕拝を許さず」とあるにも拘わらず、
一時期は相馬昌胤が奉納した「白符の鷹像」を御神体としていたそうです。
使っているそうで、伊邪那岐神はどこへやら?
名神大社がこれなら末端の神社で祭神がわからないのは当たり前ですね。
しかし、相馬家伝来の妙見信仰はどうなったんでしょうか?
いっそのこと吉田神社と改称してしまった方がわかりやすいのでは?