藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

常陸五山

今日も元気に水戸方面へ向かっています。
先日「常陸五山」のことを書いたら運転してくれるという方が現れまして
さまざまな説を読むうち確認にゆかねばとの気持ちが強まっていたので
有り難や、有り難や…とちゃっかりお願いした次第です。
 
古代から信仰されてきた「聖地」には秘められた力が宿っているとの考えが
洋の東西を問わず浸透しているという説を知りました。
だからこそ、後の征服者たちもそこを聖地として崇め続ける!
その説では
古代ケルトは「メーデー」の日の光に神性を見出し、そのレイラインの上に
ストーンヘンジやドルメン、メンヒルなどを並べていたとのこと。
そして新しく建てられた教会の多くがケルトの聖地の古い神を平定して
その土地に自らの聖人を祀ったと判断できるのだそうです。
 
常陸五山と呼ばれる東・西金砂神社、堅破山黒前(崎)神社真弓神社花園神社
花園神社以外は険しい岩山の頂上に社があります。
大和朝廷がこのような天然の要塞とも言える場所を攻め落として支配したことが
ケルトの聖地に建てられた教会と重ねて論じられていました。
 
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(西金砂山山頂・佐竹氏の城郭址にて)
 
2017/2/19のブログ「義公」に書いた五浦(いづら)海岸や浄蓮寺渓谷は
常磐炭田と同じ2000万年前の地層なのだそうです。
同じく花園渓谷(北茨城市)が「2億4000万年前の地層」、
そして御岩神社は何と「約5億年前のカンブリア紀の地層」でした。
その地層を歩いてきました!!
「約5億年前のカンブリア紀の地層」は日本に存在する最古の地層で、
日本四大銅山の一つとして知られた「日立鉱山」のある日立市周辺で見られます。
 
『日本書記』にある朝廷の武力支配に最後まで抵抗したとされる悪神
「甕星(みかぼし)香香背男(かかせを)」の話が、日本列島のルーツを語る日立の
カンブリア紀花崗岩」と神代の日本誕生を暗示すると注目した説もありました。
カカセヲは大岩と化して抵抗しますが、武葉槌命(たけはつちのみこと)
金の沓(くつ)をはいて蹴飛ばし勝利します。
古代から岩より金の価値が高かったという比喩でしょうか?
(純金は軟らかいけど…?)
カカセヲの魂が宿った大岩は宿魂石と呼ばれ、そのおさえとして
武葉槌命=倭文神(しとりのかみ)を祭神とする大甕(おほみか)神社が建てられました。
 
朝廷がこの地方を征服した理由の一つは、
常陸太田市日立市にまたがる「日立変成岩地域」という日本最古の地層から
産出される5億年前の花崗岩や3億年前の古生代石炭紀の寒水石と呼ばれる大理石、
石灰石、角閃岩、雲母片麻岩、蛇紋岩などの豊富な資源があったからでしょう。
 
江戸時代、水戸徳川家は東金砂山・西金砂山産出の「町屋石」「まだら石」と
呼ばれる蛇紋岩を「御留石」と定め、一般領民による採掘を禁じていました。
 
しかし何と言ってもここは佐竹の金山でしょう。
慶長3年(1598)豊臣氏蔵納目録にみえる「金3,397枚」のうち、佐竹領常陸
金山からの「221枚7両3朱」は、上杉氏、伊達氏に次ぐ多さだったそうです。
佐竹時代の金の精錬方法は、金鉱石を細かく砕き、それを石臼ですりつぶし、
水に流して比重の大きい金の粒を取り出したといいます。
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東金砂神社・仁王門の裏側、左右にこういう物が置かれていましたが?
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石造りであることはたしかですが、これが金砂山名産の蛇紋岩なのでしょうか?
 
社紋は佐竹氏の「五本骨扇に月丸」です。
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この拝殿に辿り着くまでが階段、階段でした。
一の鳥居は遥か山麓にあり、二の鳥居をくぐると右手に階段。
そこを進むと左手に階段が見えてくるので上ると仁王門。
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この先に田楽堂があり、さらに階段を上ると釣鐘堂と末社の小祠たくさん。
また階段があって拝殿・本殿、境内社として白山社、秋葉社、足尾社、熊野社
があるという大掛かりな神社でした。
さすがは佐竹氏…。当社の縁起はかなり古いようですが、少々疑問があります。
ここまでの威容が整ったのは佐竹の金山があったればこそではないかと…。
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宝珠上人の正体はわかりませんが、山王権現に関しては
「日枝山(比叡山)山岳信仰神道天台宗が融合して成立した延暦寺鎮守神
日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が唐から帰国して祀った」とされています。
 
遣唐使として天台教学を学んだ最澄が帰国して上洛したのは805年7月。
その後、比叡山延暦寺の地主神として祀った山王権現を、早くも翌年3月に
東金砂山山頂に勧請したのだとしたら宝珠上人は只者ではありません。
 
そもそも延暦寺という寺号が許されたのは最澄の没後、弘仁14年(823)ですが、
この由緒書は近現代の比叡山を想定しつつ書かれたように思われます。
最澄薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが延暦7年(788)
弘仁3年(812)の冬には、弟子の泰範、円澄、光定らと高雄山寺に赴いて
空海から灌頂を受けていたんですよ…(806年はあり得ない?)
円仁(794-864)の話は下野国都賀郡の豪族壬生氏の出なので現実味がありますが。
 
よって金砂本宮の縁起にも同じ疑問を提示したく思います。
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ただ、ここに金砂神社があって、のちに(佐竹氏の時代?)東西の金砂山を守るため
それぞれ東金砂神社西金砂神社として遷座させた可能性は無きにしも非ず?
 
もう一つ、元金砂神社・金砂山王宮の愛称(?!)をもつ金砂神社があり、
茨城県神社庁のページでは「大同元年3月の創立」となっています。
けれど、平城天皇の即位は3月17日(4月9日)で
延暦25年5月18日(ユリウス暦806年6月8日)に大同と改元
したため「大同元年3月」はこの世に存在しません。
となると、
「本国疾病凶荒の故に平城天皇の勅願により、横川の宝珠上人近江の国滋賀郡
坂本の山王権現日吉山王を遷し祀れば忽ちにして流行病治まりぬ。
即ち金砂神社創始の地であり下宮上宮の本宮であるので、その威徳を称え
元金砂神社とも金砂山王宮とも呼び習わされて今日に至る」との由緒もあやしい?
 
その常陸太田市千寿町62番地が「金砂神社創始の地」ならば
ここ常陸太田市下宮河内町1番地の金砂本宮との関係は?
西金砂神社の住所が常陸太田市上宮河内町1915番地なので、
「下宮上宮の本宮である」とは金砂本宮西金砂神社の元宮と言いたいのでしょう。
残念ながら今回は(頂上まで登る時間がなく)金砂神社へ行けませんでしたが、
どちらが元宮だとしても「延暦25年3月」は無いでしょうとだけ申し上げたい。
 
日本列島最古の「約5億年前のカンブリア紀の地層」からは縄文時代の遺跡も
たくさん発見されており、むしろ、遥か昔からこの地に祖神を祀って
生活していた人たちがいたと考えるのが自然でしょう。その地を利用した?
 
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金砂本宮の社殿を見ていたら、奥に人の気配の無い場所がありました。
うわッ、岩盤だ…!!
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ヨイショっと、今日の演奏修行はここにしよう。古来、水辺は重要な場所だから。
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そうして怪しい女は西金砂神社へと向かったのでありました。
 
先日行った志摩一宮伊射波神社の道が険しいなんてとんでもありませんでした。
西金砂神社本殿までは道なき道で、階段は木の根っこに持ち上げられていました。
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あまりに悪路が続くので(初めて)下りで右膝が痛くなりました。
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しかも、苦労して登ったのに山頂の本殿は工事中…(ブルーシートがかかっていました)
山頂のさざれ岩の上に鎮座していることがわかっただけでよしとしましょう。
しかし、
「天台沙門宝珠上人が現在の滋賀県鎮座日吉大社から日吉権現を勧請した事に
始まり、創建当初には比叡山延暦寺の伽藍を模した七堂伽藍中堂を設けていた」
との由緒はあり得ないでしょう。
東・西金砂神社の縁起は、延喜式神名帳に記載がないこと、
坂上田村麻呂の奥州征伐の祈願所として記録がないこと、
山王信仰が盛んになるのが平安時代中期以降であることなどから
平安中期以降とする説があるそうです。
 
すると、
清和源氏の一家系「河内源氏」の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏
嫡流たる佐竹氏の常陸国佐竹郷の領有と合致するのでは?
永保3年(1083)に始まる「後三年の役」の折、
源義光は左兵衛尉の官職を投げ打って奥州へ赴き、兄の義家を助けました。
その功績によって、常陸介や甲斐守などの官職を得、陸奥国常陸国に領地を
賜わったのが清和源氏義光流の始まりとされています。
その源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家が武田家です。
 
2016/2/25にひたちなか市武田の「武田氏館」へ行きました。
 
「河内」の地名から「河内源氏」を連想し、東・西金砂神社が山頂に鎮座したのは
佐竹氏の時代になってからではなかったのかと感じた次第。
 
あと三山、がんばれるかな…?