藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

白峯御陵

手のかかるお客様(?!)のせいでブログを書く時間がとれません。
これじゃあ自宅に居るのと同じ…(当たり前ですね)
今晩も「遊」に行きまして、帰宅後コーヒータイムを経てやっと座れました。
 
今日はお客様の希望により白峯御陵へ。
五色台への登山口の一つに高家神社があります。
 
崇徳院の棺を野沢井の霊水に浸しておいた八十場から白峯寺のある
青海町(またしても青!!)稚児ケ嶽まで運ぶ際、にわかに風雨雷鳴があり、
棺を休めた六角石に血が滴ったと伝わります。
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なぜかいつ来ても小銭が置かれています。
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配流されて8年後の長寛2年(1164)8月26日、46歳で崩御した崇徳院
京からの刺客 三木近安によって暗殺されたとの説が有力視されています。
日本最強の怨霊として数々の超常現象が伝えられてきた根っこには暗殺説があった!?
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ここからタクシーでどんどん登ってゆくと稚児ケ嶽が見えてきます。
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よくぞ、このような断崖の上に御陵を築いたものです…。
白峯御陵は四国八十八ケ所第81番札所「綾松山 洞林院 白峯寺」に隣接しています。
そして四国八十八ケ所第82番札所が「青峰山 千手院 根香寺(ねごろじ)」です。
ここに同母兄たる崇徳上皇(1119-64)流罪にし、暗殺に関わった可能性もある
後白河法皇(1127-92)が祈願所を置いています。
 
保元の乱(1156)讃岐国へ流された崇徳院崩御(1164)後、京で変事が続きました。
中でも安元2年(1176)には後白河院に近い建春門院・高松院・六条院・九条院が
相次いで死去した上、翌年には大事件が続発して追い打ちをかけられ、
都の人々は崇徳院の怨霊を意識せずにはいられない情況に陥ったようです。
精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため、
兄の院号を「讃岐院」から「崇徳院」に改めました。
そして崇徳院の念が都に届かぬようにと、白峯御陵と京を結ぶ線上に位置する
根香寺に自らの祈願所を置いたのです。
 
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春の瀬戸内海は霞むことが多いのですが、今日は岡山まで見渡せました。
白峯の展望台に咲いていた桜!
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久しぶりの白峯御陵。杉並木の続くこの参道が大好きなんです。
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いつも↑この参道を利用するのは、↓こちらの参道がキツイため!!
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たしか昭和天皇が参拝された折に整備されたのではなかったでしょうか。
 
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あとで画像を見てビックリ!? いつの間に横に座っていたのでしょうか?
(ク、クツが揃っておらず↑失礼しました…)