藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

白峯御陵~煙の宮

12/2は午前10時に宇多津駅前の塩がま屋さんにお邪魔したのち
マンションで管理会社の方と保険会社に提出する書類を書いていたら
H会長からの電話で午後から夜まで御一緒させて頂くことになりました。
 
「以前、神楽歌の神迎え・神遊びから神送りの前段までを聴いて頂きましたが、
最近、神送りから神上の段をお稽古してるんですよ」
「それは是非聴いてみたいねぇ~」
「神上にふさわしい場所といえばやはり高い所だと思うのですが…」
「じゃあ白峯で待ち合わせをしよう。僕はこれから高松を出るから」
ということで、私は宇多津から白峯に向かいました。
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この階段はたしか昭和天皇が参拝されるためにつくられたとか?
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御陵ってほぼ同じつくりですよね? いつこの形に統一されたのかしら?
…との疑問を抱きながら、30分強の奉納演奏。
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白峯から下りて「西行法師の道」へ。
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上田秋成の『雨月物語(1776刊)の「白峯」は中学生の頃、教科書で読みました。
西行崇徳院の怨霊を鎮めようと讃岐で歌を捧げた逸話は諸本に見られますが、
西行が讃岐を訪れたのは仁安3年(1168)崇徳院の怨霊について騒がれ始めたのは
もっと後のことなので時差があります。
 
保元の乱(1156)で同母弟の後白河院に敗れた崇徳院讃岐国に流され
軟禁生活の中で五部大乗経(「法華経」「華厳経」「涅槃経」「大集経」「大品般若経」)
写経し、都へ送ったそうです。
 
『吉記』 寿永2年(1183) 7月16日条
   崇徳院讃岐において、御自筆血をもって五部大乗経を書かしめ給ひ、件の経奥に
   理世後生の料にあらず、天下を滅亡すべきの趣、注し置かる。
   件の経伝はりて元性法印のもとにあり。
   この旨を申さるるにより、成勝寺において供養せらるべきの由、右大弁をもって
   左少弁光長に仰せらる。彼怨霊を得道せしめんがためか。
………
後白河院が写本に「呪詛が込められているのではないか」と疑って送り返した
ことに激怒した崇徳院は、舌を噛み切って写本に血でこう書いたと伝わります。
日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん
そうして死ぬまで爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になったそうです。
 
他方、後白河院は、
保元の乱後、罪人として扱われた崇徳院讃岐国崩御した際もその死を無視。
太上皇無服仮乃儀(=服喪の儀なし)」『百錬抄
 
ただ、崇徳院崩御の翌年(1165)崇徳院に三木近安という刺客を送ったと噂された
後白河法皇の第一皇子 第78代二条天皇が23歳で崩御しています。
 
……崇徳院崩御後、干支が一巡しての安元2年(1176)、朝廷で相次ぐ変事が!?……
 
       6/13…鳥羽院の娘 高松院姝(しゅ)内親王が36歳で崩御
       7/ 8…後白河院の女御 建春門院平滋子が35歳で崩御
       7/17…後白河院の孫(二条天皇の第二皇子) 六条院が13歳で崩御
       8/19…近衛天皇中宮 九条院藤原呈子が46歳で崩御
 
安元3年(1177) 4/28の夜には樋口富小路で起きた火事が瞬く間に広がり、
内裏(大極殿焼失)を含む都の約3割が灰になり、死者が千人に上ったそうです。
これを兄の祟りではないかと疑った後白河院崇徳院諡号を贈ったものの、翌
治承2年(1178)には大火で七条東洞院から朱雀大路までが焼き尽くされました。
 
もっともこの話は怨霊を信じるか否かというレベルにとどまらず、
崇徳院の死を利用して世情を揺るがしたい勢力があったとの説もあります。
皇族に生まれても大変、庶民に生まれても大変なのが現世ということで…
われわれは高松へ向かうことに。
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途中、崇徳院を火葬した煙が京へ向かって流れたため
朝廷に害が及ばないよう「煙の宮」を立てて鎮魂したと伝わる青海神社へ。
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岩肌が見えている上が↓白峯御陵です。
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ここからが西行御陵を目指して登ったと伝わる「西行法師の道」です。