12/2は午前10時に宇多津駅前の塩がま屋さんにお邪魔したのち
マンションで管理会社の方と保険会社に提出する書類を書いていたら
H会長からの電話で午後から夜まで御一緒させて頂くことになりました。
「以前、神楽歌の神迎え・神遊びから神送りの前段までを聴いて頂きましたが、
最近、神送りから神上の段をお稽古してるんですよ」
「それは是非聴いてみたいねぇ~」
「神上にふさわしい場所といえばやはり高い所だと思うのですが…」
「じゃあ白峯で待ち合わせをしよう。僕はこれから高松を出るから」
ということで、私は宇多津から白峯に向かいました。
この階段はたしか昭和天皇が参拝されるためにつくられたとか?
御陵ってほぼ同じつくりですよね? いつこの形に統一されたのかしら?
…との疑問を抱きながら、30分強の奉納演奏。
白峯から下りて「西行法師の道」へ。
もっと後のことなので時差があります。
写経し、都へ送ったそうです。
『吉記』 寿永2年(1183) 7月16日条
崇徳院讃岐において、御自筆血をもって五部大乗経を書かしめ給ひ、件の経奥に
理世後生の料にあらず、天下を滅亡すべきの趣、注し置かる。
件の経伝はりて元性法印のもとにあり。
この旨を申さるるにより、成勝寺において供養せらるべきの由、右大弁をもって
左少弁光長に仰せらる。彼怨霊を得道せしめんがためか。
………
後白河院が写本に「呪詛が込められているのではないか」と疑って送り返した
ことに激怒した崇徳院は、舌を噛み切って写本に血でこう書いたと伝わります。
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
そうして死ぬまで爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になったそうです。
他方、後白河院は、
安元3年(1177) 4/28の夜には樋口富小路で起きた火事が瞬く間に広がり、
内裏(大極殿焼失)を含む都の約3割が灰になり、死者が千人に上ったそうです。
もっともこの話は怨霊を信じるか否かというレベルにとどまらず、
崇徳院の死を利用して世情を揺るがしたい勢力があったとの説もあります。
皇族に生まれても大変、庶民に生まれても大変なのが現世ということで…
われわれは高松へ向かうことに。
途中、崇徳院を火葬した煙が京へ向かって流れたため
朝廷に害が及ばないよう「煙の宮」を立てて鎮魂したと伝わる青海神社へ。
岩肌が見えている上が↓白峯御陵です。