藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

崇徳院

昨日は、飯野山からかつての鵜足郡川津にある天皇神社へ行きました。
飯野山は南から見ると讃岐富士という感じがしますね。
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天皇神社に着きました。北から見る讃岐富士は?
とても同じ山とは思えません…。
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崇徳上皇さまもこの讃岐富士を見られたのですね…。
そして私が一番好きな角度の讃岐富士を金比羅さんからご覧になった…。
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歴代天皇の中で都に陵墓がないのは崇徳天皇安徳天皇淳仁天皇と言われます。
(天皇陵の真の埋葬者が確定しているわけではありませんが…)
そのうち安徳天皇淳仁天皇の陵墓に複数の候補があるのに対し、
崇徳天皇の御陵は一つだけです。崇徳院といえば、この和歌。
瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ
 
保元の乱(1156)で敗れた崇徳上皇讃岐国流罪となり讃岐院と呼ばれました。
国府近くの鼓岡に建てられた粗末な木の丸殿で幽閉生活を送り、
移動範囲も限定されていたそうです。許されていたのは金比羅詣で。
府中から琴平は離れているため、途中、休憩を兼ねて立ち寄っていた場所を
院が京を偲んで「東山」と呼び、そこに天皇神社が建てられたのだそうです。
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「鴨川」という駅名も、崇徳上皇が京の鴨川を懐かしみ
近くを流れる綾川につけた名前に由来しています。
 
保元物語』に讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒した崇徳院
五部大乗経(法華経華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念し、
戦死者の供養と自省の証として完成させた五つの写本を京の寺に収めてほしいと
朝廷に差し出したところ、後白河院が「呪詛が込められているのではないか」と
疑って拒絶し、写本を送り返したとのくだりがあります。
実の弟の無慈悲に激怒した崇徳院は舌を噛み切り、自身の血で写本に
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
「この経を魔道に回向す」と書き込み、爪や髪を伸ばし続けて夜叉のような
姿になった後、生きながら天狗になったとされています。
崩御するまで爪や髪は伸ばしたまま、崩御後にはその棺から血が溢れてきたとか。
 
続きは4月1日のブログに書きます。
 
今日からのお客様!! オルガンでの即興演奏に夢中です。
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お出かけして疲れ果てたウサギさんたち!?
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