藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

「香島の天の大神」(沼尾社・坂戸社・鹿島神宮?)

前回(2/7)常陸国風土記』の香島の天の大神について書いた以上、
先延ばしにしてきた沼尾社(ぬまをのやしろ)坂戸社(さかどのやしろ)
行かないと机上の空論にしかなりませんよね。
しかし、鹿島は遠い…。
なぜ知っているのかというと、2012年12月21日に行きました。
 
古代海人族の楽器「倭琴」への興味から旅を始めたのが2012年4月15日。
東国では常陸国でのみ五絃のコトが出土しているため
ずいぶん早い時期に行ってますね。
 
その日は、大生神社へ行ってから鹿島へ向かいました。
代々鹿島神宮神職をつとめた東家の文書で
大生神社鹿島神宮の元宮とされていることを知ったためです。
 
今回は新たに大生神社近くの古墳の上に鎮座する
大生殿神社を見つけたので行ってみることに。
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出発して15分後、「香取海」を走りつつ筑波山を望みます。
今日一日、筑波山を目で追いながら走りました。
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30分後、滅多に買えない有機イチゴ屋さん(営業時間が10時~15時なので)の前を
通りましたが、潮来~鹿島経由で持ち帰ったらボコボコになると思い、断念…。
 
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40分後、やっと神崎が見えました。
このところ何度も千葉県側へ渡った橋を幾つも通り過ぎました。
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いよいよ常陸利根川を渡って潮来市へ。
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霞ヶ浦越しの筑波山
2012年12月にも夢中で撮影した記憶が…。
そのときと同じ道を通り、大生神社へと右折する一つ手前の道を右折しました。
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走っていたら、左手に気配を感じたので急ブレーキをかけました。
引き返すと、大生殿神社の入り口でした。
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何と、古墳の上に社殿が!?
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横から見ると、本殿は石の祠でした。
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なんだか…チグハグ感が凄い。と思ったら、
9世紀初頭に大生神社を創建したとされるオフ氏と、先住民の古墳の上に
この大生殿神社を創始した大生氏は無関係でした。
大生氏の初代八郎平玄幹(はるもと)は、1183年に当社の真北1.1kmに鳳凰台城を
築いて大生氏を名乗ったと伝わります。12世紀末に当地を支配したわけです。
わが国では、新たな支配者が先住民の領地や地名などを踏襲することが多かったため
歴史が上書きされて民族移動の実態がわかりづらくなったのではないでしょうか。
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本殿・拝殿の改築に加え、鳥居も「大生家」「大野家」が奉納していました。
 
当社や大生神社の周辺は古墳密集地として知られています。
前方後円墳・方墳・円墳など大小110余基からなる大生古墳群
県下最大規模を誇り、築造時期は古墳時代中期(5世紀)とあります。
ただし、1972年の報告書は6世紀後半~7世紀後半の築造としており、
報告書によって2世紀もの差が生じていることに驚かされます。
 
東家累代系譜の『鹿嶋大明神御斎宮神系代々』にこうあります。
平城天皇の御代(大同元年11月14日)東征の官軍が常陸国行方郡に陣を敷いた際、
宮中で斎宮(物忌)と当禰宜常元(東常元)らが「大生大明神」を創祀。
「南都大生邑大明神(多神社)」からの勧請で、古く「大生宮」と号す。
●大同2年、東夷の帰順を受けて「大生宮」が勅により
12月27日に「いまのかしまの本社」(鹿島大谷郷)遷座
 
大同元年とは806年。
806年に大和の多神社から勧請し創祀した大生大明神を斎く人々の古墳が
6世紀後半~7世紀後半に築造されたなんてことあり得ます?
民族が移動すれば、祖神を祭神とする祭祀も必ず遷ったはずですが。
 
もっとも風土記では大化5年(649)に神郡として香島郡が成立しており、
(このあたりが『常陸国風土記』に水戸光圀が関わっていたと言われる所以?)
大化改新後に躍進した中臣氏が朝廷や鹿島社との関係を深めて
春日大社を創祀したため鹿島神宮が変容(官製化?)したとの説もあります。
すると、多神社から勧請された大生大明神春日大社創建のために
五絃のコトをもち鹿を神と斎く海人族の鹿島社を支配した可能性も?
 
日本中どこもかしこも辻褄の合わないことばかりでさっぱり訳が判りません。
しかも祭神は日本神話に基づく作り話?
当社からも大生神社からも直線で1kmほどの潮来市釜谷(かまや)
甕森神社がありました。
主祭神が「武波槌命」!?
どこかで聞いたような名前です。

日本書紀』に、カトリの「經津主神」とカシマの「建御雷神」の二神が
邪神を悉く平定したのに「甕星香香背男」だけが従わなかったので
建葉槌命」を派遣して服従させたって話ありませんでしたっけ?
 
主祭神建葉槌命(たけはづちのみこと)
地主神=甕星香香背男(みかぼしかがせを)
というのは大甕神社ですね。
すると甕森神社にもやはり「甕星香香背男」が居たってことですか?
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大生殿神社から甕森神社へ向かっていると六差路がありました。
ここを直進すべきところ、方向音痴の私は斜め右方向へ進んでしまい、
何度地図を見ても道がわからなかったので、いったん台地を下りました。
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この時に北浦大橋を見て、あの白い橋を渡ろうと決めました。
下りて左折して次のこんもりを上り、ぐるっと一周して到達した甕森神社
北浦を一望できる高台に位置していました。
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これは、古代の一大要塞でしょう。
崖地の周囲を走っていると、ここが古代の海岸線かと思えました。
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社叢も素晴らしく、海辺の極相林のようでした。
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祭神や社伝などに関してはよくわかりませんでした。
なお、この周辺に「カメ森古墳群」があるようなので、
もしかすると甕森神社は「ミカモリ」ではなく「カメモリ」かもしれません。
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これは東家累代系譜『鹿嶋大明神御斎宮神系代々』の記述
平城天皇の御代(大同元年11月14日)
東征の官軍が常陸国行方郡に陣を敷いた際、
と重なりそうですか? この時期、官軍に支配されたとか?
 
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さぁ崖地からおりて再び下の道を走っています。
あの白い橋が北浦大橋です。次の椿神社まで橋を渡って20分と出ました。
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少し走ると、やはり「香取海」から直接あがったと思われる崖地の神社が
ありました。が、地図に載っておらず、社名も判りません。
 
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さあ、北浦大橋を渡ります!
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あまりにもガラガラなので、走りながら片手で撮影してしまいました。
帰りに通る南の神宮橋方面ですが、もちろん橋は見えません。
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橋を渡ってから南下し、台地にあがって椿神社に着きました。
が、隣にも鳥居が並んでいます。
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いくら周囲を探しても椿神社の文字しかありません…。
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いつものように社地をぐるりと一周していたら本殿横から入れました。
さっき見た鳥居と、隣の鳥居の奥にあった社殿への石段(画像左)です。
大生に多神社が来たように、椿神社も海柘榴市から来たのかな? との興味から
立ち寄りましたが、参道の両側が盛り上がっているのが気になりますね。
 
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ついにやってきました! 地図に載っていない国指定史跡です。
舗装されていない道の水たまりに入りつつ鬱蒼とした社叢を目指しました。
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やっと奥の社殿らしきものが見えて来ました。
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たしかに沼尾神社のようです。
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国指定遺跡なのに地図に載っていないのは、実は朝廷が平らげて
三社まとめて官製にしちゃったこともあって人目にふれさせたくないとか?
妄想好きの血が騒ぎます。
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巨木の一本一本がド迫力ですね…。
カビ臭が物凄く、アレルギーのある私は長居できませんが、
百聞は一見に如かず。
百見は一考に如かず。
百考は一行に如かず。
(以下、略)
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沼尾神社から坂戸神社へは約7分と出ました。
走っていたら見えてきたあれは、鹿島サッカースタジアムではありませんか!?
ここを右折しなくてはならなかったのに左ばかり見ていたら
通り過ぎてしまい、迂回して辿り着いたら16:54になっていました。
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何の案内板もないけれど、きっと↑アレです。
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やっぱり参道の両側が蜘蛛窟っぽくありませんか?
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お約束なので、社叢の外側をぐるっと廻ろうとしましたが、
先日の雪が融けたばかりでぬかるんでいて車輪をとられました。
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駐輪スペースさえあれば徒歩でまわりたい社叢です。
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かつては大勢の人が住んでいたことを想像させる広大な社地でした。