桜…と書きつつ、背高(1m以上!!)菜の花に驚いて撮った最初の一枚。
今日は一昨日に続き古墳巡りをしようと旧新治郡へゆきました。
この新治郡が非常にややこしいので、私の中で整理しておきたく…。
新治郡のうちには『倭名類聚抄』に以下の12郷の名があります。
坂門郷、竹島郷、沼田郷、伊讃郷、博多郷、巡廻郷、
月波郷、大幡郷、新治郷、下眞郷、巨神郷、井田郷。
新治郡が制定されたものの、その範囲は古代の茨城郡や信太郡、筑波郡の
一部からなっており、古代の新治郡とは全く別物でした。
だから新治神社に違和感があったんですね(古代は茨城郡?)。
↑このとき直感だけで書いてました。今回初めて詳細を確認…(いい加減ですみません)。
しかも、古代新治郡とは全く異なる近世新治郡を明治11年(1878)に
近代新治郡が引き継いだ上、明治29年(1896)の郡制施行に際し、
隣接する筑波郡・信太郡との間で大幅な境界変更が行なわれています。
市町村合併等によって減少し、平成18年(2006)に消滅したそうです。
その近代新治郡の出島村へ行きたいと思っていました。
征夷大将軍の侵攻ルートを考えると、絶対に外せないはずなので。
または、鹿島・香取軍が直接「香取海」から上陸したか?
いずれにせよ血なま臭い話です。
今回もヤマト王権に駆逐される前の先住民の墳墓を訪ねます。
先ずは新治郡上大津村(現 土浦市手野町)にある王塚古墳と后塚古墳です。
ナビが「目的地に着きました」と言うのですが、振り返っても
古墳らしきものは見えません。すると、あのこんもりの中か?
という直感のままに側道へ入りました。
さて、左折する道があるでしょうか?
台地の奥にありました。この右手はこんな感じ。
オーバーホールしたばかりのキャノピーですが、
未舗装路やコンクリート舗装の道を走るため、もうガタガタです。
繁みに突入すると「后塚古墳」の石柱がありました!
今のところ前方後方墳との説が有力なのだそうです。
左手は墓地。ともかく走れる所まで進みます。
おっと、階段です。取り敢えずバイクを停めて、左手を見ますと↓
うわぁ…王塚古墳!? 后塚古墳より大きいですね。
こちらは前方後円墳だそうですが、草ボウボウで奥へ廻り込めません。
一つ前の画像の左手から木漏れ日を撮りました。
では、気になる神社をまわりつつ北へ向かいます。
王塚古墳から2分ほど走ると鳥居が見えました。
ふつうに走っていたら幾つも見かける鹿島神社です。
バイクでぐるりと一周してみましたが、素通りします。
以前、常陸国の鹿島と香取の社(やしろ)を地図上でチェックしようとし、
300~400を数えたところで止めました。キリがないので。
目指しているのは真北の「神立(かんだつ)」鎮座の鹿嶋神社。
この丘を下りて線路を渡り、次の丘に上ります。
あのこんもりを拠点の一つとした先住民の痕跡が残っているかもしれないので。
あまりに勾配がきついので自転車では上がれないようです。
徒歩で自転車を押して上がるのはキツイですね。
道路際に突然出現。ずいぶんさっぱりした神社です。
でも奥へまわると素晴らしい社叢。
鹿嶋神社になる前の祭神を知りたいものですが、何のヒントもありません。
社叢の中で演奏修行させていただきました。
公園のようになっていて人が多かったので素通りしました。
この信号を左折すると程なく角来(かくらい)稲荷神社です。
おそらく、あのこんもりでしょう。
因果な習性で、宇迦御魂かダーキニーか確かめたくて来ました。
新旧のおキツネ様が鎮座しておられます。
しかし、本殿の左に、本殿の方を向いた「本殿」が!?
まったく意味がわかりません。むしろ社叢の獅子咲きのツバキが気になりました。
観賞用「南蛮紅」の獅子咲きでしょうか?
種類・名前が気になります。御教示いただければ幸いです。
さ、ここから一気に東端の住吉神社を目指します。
かつては新治郡関川村でした。
わぁ~、今日一番の桜並木です。
戸沢公園運動広場だそうで、グラウンドがぐるりと桜に囲まれていました。
ここを左折したら、戸沢池がありました。
午後は雨の予報なので雲行きが怪しくなってきましたね…。
ここからは細い旧道をクネクネ走って霞ヶ浦の見える場所へ。
あれま、階段!? かつてはここに舟が着いていたのかも?
ここまで来たら登るしかありません。
左は鹿行台地、中央に見える対岸は次の突端「柏崎」でしょう。
そこの素鵞神社へも行きますが、そこまでの道路の名称が
「石岡田伏土浦線」というのも意味深ですねぇ…。
社殿よりも、後ろの広大な台地の方が気になります。
もちろん斜面を登って歩いてみました。
ここはやはり海人族の神社でしたね。
前掲の「海進」の推移を示す地図でもわかるように
このあたりは「香取海」だったのでしょう。
「石岡田伏土浦線」を走るため、再び丘へあがろうとしたら
ナビが左折してこの道を登れと言います。
しかし、砂土が抉れて車輪が空回りし、車体がズルズル後退してしまいました。
何たること!? ナビを無視して別の道から宍倉総鎮守・鹿島神社へ到達。
「宍倉」は新治郡志士庫村でした。近くの「志士庫郵便局」にその名が残っています。
さすが宍倉総鎮守だけあって立派ですね。案内板もありました。
いったいどんな御神体なんですか?
弟橘姫神社には天妃を被せてましたよね?
御老公のマメさには頭が下がります。
鎮座地や祭神が変わっている神社では必ずその名が明記されていますので。
こちらが延宝元年(1673)に再建された本殿ですか…
御老公は何を御神体として納めたのでしょう?
「石岡田伏土浦線」を走り始めて裏から本殿を見たら、
蜘蛛塚を封じ、隠すための鹿島神社だったかも? と背筋が寒くなりました。
「石岡田伏土浦線」の左右には下り坂がたくさんあります。
この細長い台地が古代からの生活空間だったんだなぁ…と感じつつ走っていたら
左手に気になる看板が!? 「あんしょく」? 右上には「安食」とあります。
「安食(あんじき)」は江戸時代は新治郡のうちにあったと書かれていて、
明治22年(1889)の町村制施行に伴い、安食村・柏崎村・岩坪村・下軽部村が合併して
新治郡安飾村が発足。安飾村大字安食となったそうです
しかし「安飾」の読みが「あんしょく」とは…!? 今度は右手にこの案内板↓
ところが、あまりに小さくて見逃し、坂を下ったらこの標識↓
すでに亡き「出島村」ゆえ、今となっては貴重な標識です。
昭和30年(1955)から平成9年(1997)まであった「出島村」は
下大津・美並・牛渡(うしわた)、佐賀、安飾、志士庫(ししくら)の6村が合併し、
霞ヶ浦に突き出た半島状の地形からつけられた村名だとか。
佐賀(サカ・スカ・ソカ)もありました。素鵞神社があるのも納得。
引き返して見つけた「太子古墳」です。
朱の丸紋…、丹生ですか?
1kmほど走ったら「富士見塚古墳群」への看板が出ていました。
これは大変な規模です。
古墳の威容もさることながら、きれいに整美されていることに驚きます。
また、ここは霞ヶ浦を臨む古墳群としても知られています。
かすみがうら市は14時~16時まで雨の予報で、太陽光が撮れず残念ですが、
同じ「柏崎」の素鵞神社を目指します。
何度も渡った霞ヶ浦大橋を見ながら坂を下り、ほんの数分で着きました。
これまでに行った常陸国の須賀・素鵞神社と同じく、岸辺に鎮座しています。
小雨模様なので演奏修行はせず、先を急ぎます。
が、この出島のほぼ中央ともいえる「三ツ木」鎮座の吉田神社への道は
地図にありません。これまでの経験と直感だけが頼りです。
私有地かも知れないのに勝手に走って申し訳ありません。
道を尋ねようにも、どなたにも出会えませんでした。
やはり、このこんもりの中にありました。
霞ヶ浦周辺に入ってきた時には先住民が居たはずです。
この台地の先住民も海人族であったか…と《阿知女》を演ってみました。
演奏修行が終わる頃にはすっかり晴れました。
今日もハードルの高い旅でしたが、キャノピーがよく走ってくれました。
実は後ろのみ太さ1.5倍ほどのタイヤ2輪に付け替えたカスタム車を発注したので
届くのが楽しみです。なにしろ悪路との闘いなので。
さ、晴れたので夕日を見に出島の南端へ行きますよ!
曇りや雨の場合は別ルートを考えていました。
17:13、台地を下っています。目指すは「加茂」の八坂神社です。
出島南端の八坂神社まで来ました。
向かっているんですね!? このルート、次に霞ヶ浦大橋を渡る時、走ってみます。
人工的建造物への興味は持てませんが、霞ヶ浦から上陸するための玄関ということで。
むろん往古は海人族の祭祀が行なわれていたことでしょう。
しかし、ここから牛久大仏が見えたのには驚きました。
自然と人工的建造物との調和は難しいですね…。
この道を150m西進すれば崎浜横穴古墳群です。
13~12万年前の牡蠣化石床なんて初めて見ます。
こちらは、古い地層と、古墳時代の人工的掘削!? のコラボ?
さらに、近現代の地蔵まで参戦?!
ここ崎浜では潮流で掃き寄せられた牡蠣の遺殻が集積し、
川尻では生きたままの直立姿勢で牡蠣が埋積されているのだそうです。
でも、見た目脆そうなのに、よくぞ掘って遺体を安置しようと考えましたね。
もう一つの興味は「約7,000~6,000年前の縄文海進時後の海面低下で形成された
湖岸低地帯は見渡す限りのハス田となっており」とある、レンコン畑の風景でした。
うわぁ…筑波山です!!
そして、17:37の夕日。霞ヶ浦とハス田に映えてます。
今日もご覧くださり有難うございました。
文字数は大したことありませんが、画像は過去最多かと存じます。
個人的記録ゆえ、お許しください。