遠賀川沿いの73号線を走りながら車の窓を開け、振り向いて撮った一枚。
古代、今よりずっと川幅が広かった遠賀川に船で入ってきた時、
最初に目に入るものは? との興味から撮りました。
いま走っている土手の道は
古代にはありません。
←おおよその位置を
ブルーでマークしてみました。
すると、↑の画像で南に見えたのは
六ケ岳ということになります。
←一番下の端っこのブルーのマークです。
六ケ岳は
1 旭岳
2 天冠(てんがい)
3 羽衣
4 高祖(たかす)
5 崎戸(さきと)
6 出穂(いずほ)
からなり、最高峰が338.9m。
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『鞍手町誌』によれば
「宗像三女神は最初に六ケ岳に降臨し、
孝霊天皇のとき宗像三所に遷幸され宗像大神となった。
その後、成務天皇7年室木里長 長田彦が六ケ岳崎戸山に
神籬(ひもろぎ)を営んだのが当社の始まり」だそうです。
延喜7年(907)に社紋が菊花に定められ、
応安7年(1374)に足利義満が社殿を造営。
ただし古社殿は享禄年間(1528-31)に炎上焼失し、
御神体が下宮に遷されたそうです。
四社が合祀されました。
「宗像の大神、天より降り、崎戸山に居ましし時、云々」とあります。
その宗像の大神(宗像三女神)を祀るのが六獄(むつがたけ)神社です。
六獄神社由来に
「紀元前700年のころ、皇女三神 霊山六獄崎門峰に御降臨あり、
この地を上宮と定め室木の里に下宮を建立」とあります。
拝殿から見た参道。この先(宗像大社へ向かう方角)に長い階段があります。
拝殿の前に立つと六ケ岳を遙拝する形になりますが、樹木により見えません。
北部九州の古代豪族 宗像氏の勢力範囲を示すものなのでしょうか?
大分・佐賀の一部にまでをも治め、領地内の祭祀を司っていたそうです。
「フル」とは隕石を指す古語とも言われているそうです。
それで隕石が落ちた所を「降るもの」と呼び、「古物」の字が当てられ、
さらに訛って「ふるもん」「古門」という地名になったとの説もあるとか。
いや、しかし、横書き…?!
鳥居の脇には土俵が?!
相撲と隕石にどんなつながりがあるのかわかりませんが、ともかく
古物神社の真南には神崎神社がありました。
祭神は「八幡神」のようですね。
そして、神崎神社の参道からも六ケ岳が見えました。
遠賀川の源流に近い馬見山の「馬見物部」、古門の「古物部」、
遠賀川に沿った縦長の資源豊かな盆地を本拠地とした物部が
全国に散っていったとの説もあるようです。
それが九州王朝の謎を解くカギになりましょうか?
そして「紀元前700年のころ」六ケ岳に降臨した宗像の大神(宗像三女神)が
その地を分断して治めるようになったということでしょうか?
まだまだ調査研究が必要ですね…。
蔵王大明神に立ち寄りました。もちろん地主神ではありません。
鳥居の寄進者が「吉野五郎七」さん!?(吉野から来たことを暗示?)
そして、当社にもまた長い階段!!
登り切ったと思ったら右手にまだ階段が続くのが当地の神社の特徴でしょうか?
あああ…やっと見えました。
現在は小さな祠と、ベンチのある四阿屋が再建されています。
左の石碑によれば400年ほどの歴史ということでしょうか?
ただ、古地図を見ると中洲の島に位置するように見えたので行ってみました。
残念ながら、この日は階段階段で各社とも社殿までが遠く、
時間がおして河口まで行けなくなってしまいました。
次は突端から始めたいと思います。