藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

焼津~清水

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13:30、清水港から見た富士山。
昨日・今日と、お天気に恵まれた演奏修行旅でした。
 
清水から静岡に戻って「ひかり」に乗ったので
もうすぐ東京に着きます。
ホテルは連休価格なのに全ての点で最低でしたが、
タクシーの運転手さんは昨日の金谷、今朝の焼津、
お昼の清水ともプロフェッショナルで助かりました。
 
9:10にタクシーを予約していたら早めにいらして下さっており、
2本早い東海道線に乗れました。
これが、後々非常に効いてくるのです。
焼津では4社を予定しておりました。
それが運転手さんの検索のお蔭で6社まわれましたが、
2本早い電車に乗れてなければ絶対に無理でした。
 
今日の最初は「花沢の里」の手前、吉津のおしゃもっつぁん
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地図で見つけた時、すぐにピンときました。
おシャモジ系も縄文のミシャグチですから。
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しかし、網の隙間にカメラを差し入れて撮ってもよくわかりません。
対岸と同じ石質かと思いますが、どうでしょうか?
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この花沢川側ではなく、道路側だけが祭祀の対象だったのでしょうか?
想像がつきませんが、道路側の岩盤も撮ってみました。
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いや、これは岩盤ではなく、さざれ石でしょうか?
よくわからないまま引き返し、今度は現 藤枝市岡部町へ。
 
岡部町に「三輪」の地名と、かの大神(おほみわ)神社の「大」を取った
(みわ)神社があったので訪ねてみることに。
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おおお…延喜式内社ですね。
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本殿の右手に三ツ鳥居があり、その奥が古代の斎庭なのだそうです。
ちょうど宮司さんが掃除をされていたので神楽歌の演奏許可を頂きました。
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三ツ鳥居の奥に巨木がありますね。
 
かつて浜名湖は、京に近い琵琶湖が「近淡海」と呼ばれたのに対し、
「遠淡海」(とほつあふみ→とおとうみ)と呼ばれていました。
そこより東の古代東海道との交通が確保されたのは、貞観4年(862)
浜名湖南端から太平洋に注ぐ浜名川河口に橋が架けられて以降でした。
そんな「東国」に寧楽の都と同じスタイルの神社が造られていたとは…!?
 
むろんヤマト王権が「東国」を支配するまでには夥しい血が流されています。
延暦13年(794)大伴弟麻呂が任ぜられたことに始まる征夷大将軍
延暦16年(797)に継いだ坂上田村麻呂は東北経営に関わる指揮権を与えられて
延暦21年(802)に胆沢城を築き、蝦夷平定に大きな功績を残しました。
 
だからこそ朝廷は「東国」にヤマト王権の祭祀を持ち込めたのでしょう。
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そして岡部のおしゃもっつぁん
神神社によって佐護神社に生まれ変わっていました。
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このように立派な社殿が移設されていたものの、
階段の上には御神輿の御仮屋らしき建物があったので
その背後こそが縄文のおしゃもっつぁんではないかと妄想してみたり。
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実はこの岡部町内谷の佐護神社を探して下さったのは運転手さんでした。
神神社で降りる際、「次はどこですか?」と訊かれたので
佐護神社です」とだけ申し上げたのです。
それは至近距離の、三輪の佐護神社のことでした。
ところが運転手さんは三輪の佐護神社を通り過ぎて北上されたのです。
私も地図で確認。「ぜひ行って下さい」とお願いしました。
 
こちらは三輪の佐護神社です。
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「町内にほかにも三社あります」ですって? とても探せません…。
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当社は道路脇にありながら、古代的な空間に見えました。
 
こうなると、内谷佐護神社の案内板冒頭にあった立石神社へも行きたい!
ということで向かいましたが、またしても GoogleMap がメチャクチャな
ルートを提示したせいで山の中に入り込み、方向転換できずに困りました。
そこを脱出できたのは地元の運転手さんの機転と勘にほかなりません。
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車一台がやっと通れる路地に入り、切り返しつつ曲がったら、
目の前にこんな空間が広がってました!?
ビックリです! 大変な古社ではありませんか?!
すぐ右に駐車できる広場があったものの、その奥は崩落してました‼
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石段を登る途中で撮りましたが、私が立っている地面も
いつ崩れてもおかしくない…?!という気がして、ゾォッとしました。
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拝殿が見えてきた頃、ジョギング姿の地元の方が下りてこられました。
「おはようございます! この神社には磐座があるのでしょうか?」
「いえ、ありませんよ。地名が立石だったので社名になったと聞いてます」
「そうですか、ありがとうございます」
と申し上げたものの、納得できず、一目散に社殿の奥へ。
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あれが磐座でなくて何なんでしょうか?
右は断崖絶壁ですが、恐る恐る近づいてみました。
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ここも古代祭祀おしゃもっつぁんではなかったのでしょうか?
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社殿をぐるっと一周すると、古代祭祀場の特徴である円形台地だとわかります。
すると、先住民の祭祀場に社殿を建ててヤマト王権の神社にしたのは
やはり、神神社ということになりましょうか?
 
長い階段を下り、再び三輪を通って、今日のメインたる
猪之谷神社古墳(奥座敷1号墳)」へ向かいます。
藤枝市神神社とわずか760mしか離れていませんが、
猪之谷(いゐのや)神社の住所は焼津市関方です。
 
運転手さんによれば、焼津市には今日まわった神社が鎮座する高草山しか
山というものがなく、古来、水害のたびに寺社が移転していたそうです。
その高草山の中腹にある「方ノ上城」の名称は古代 伊勢神宮の荘園だった
「方上御厨」(かたのかみのみくり)に由来するのかもしれません。
 
高草山山麓から朝比奈川・瀬戸川にかけては古代の「益津(益頭)」で
古くは「やきづ」と発音したそうですが、「ましづ」に変わっています。
日本武尊伝説に基づく「焼津」は「焼きつ」に通じ、
地名としては縁起が悪いとの考えから「益(やく)」に変えられて益津(頭)。
次第に読み方がヤキツからマシツ(ヅ)に変わったと推測されているようです。
ただし、日本武尊伝説はヤマト王権の神話なので、私としてはこの地に
天然ガスの噴出がみられたことによる「焼ける津」説の方が興味深いですが。
 
いずれにせよ、神神社猪之谷神社駿河國益頭郡の神社でした。
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さあ、猪之谷神社に着きました。古墳はどこにあるのでしょう?
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この六鈴鏡が出た横穴式石室(7世紀代)を見に来ました。
六鈴鏡の製作年代は文様などから5世紀末~6世紀前半とされているそうです。
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石段を登りながら左手を撮ったら、偶然にも古墳が写っていました。
近づくとこんな感じ。あっけなく見つかって拍子抜けしました。
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この位置から右手を見ると社殿がありました。
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猪之谷(いいのや)神社の発音が井伊谷(浜松市北区)と同じなのが気になりました。
ここ猪之谷神社の祭神が後醍醐天皇
井伊谷宮の祭神が後醍醐天皇第四皇子の宗良親王(むねながしんのう)
とくると、井伊氏は南朝方だったので、関係がありそうですが?
 
そもそも古墳時代の横穴式石室と南北朝時代創建の神社を同じ俎上で扱うのは
無理ですし、ましてや古墳と井伊氏との関係性などわかるはずもありません。
 
はっきりしているのは、明治維新建武中興に尽力した人々を祀る神社を
創建しようとの気運が高まった際、彦根藩井伊直憲が井伊氏発祥の地
井伊谷宗良親王を祭神とする「宗良親王御社」の創建を出願し、
明治3年(1870)に完成させたこと。
いわゆる建武中興十五社の一社で、明治5年(1872)井伊谷宮と改称されました。
 
井伊谷はまた、東国を転戦した宗良親王が元中2年(1385)8月10日に
73歳で歿した地とも伝わりますが、諸説あって定かではありません。
井伊谷宮の社殿の背後には宗良親王の墳墓もあるそうですが。
 
他方、焼津市関方の猪之谷神社に近い方ノ上城山麓の方ノ上部落内には
井伊直政の次男として現 焼津市中里で誕生した井伊直考屋敷跡があります。
直孝はのちに上野国白井藩主、近江国彦根藩2代藩主になっており、
焼津市中里には現在も「井伊直孝産湯の井」が保存されています。
 
やはり古墳の主が誰なのかはわかりませんでした。が、
いずれ浜松の井伊谷へも行ってみたいと思います。
 
いったん焼津駅へ戻ったのち静岡駅を通り越して清水駅を目指します。
駿河國三之宮 御穗神社(三保大明神)の近くに瀬織戸神社を見つけたためです。
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よほど太平洋からの風が強いのでしょう。木がみんな北に傾いていました⁉
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本気なのかと言いたいところですが、突っ込んでいる場合ではありません。
神の名前はさまざまでも、それぞれの役割が重要なのであって
複数の神が一神に集約できるとの説を思い出しました。
 
社名から古代の発音へのヒントを感じました。
いかなる国の言語も完璧に発音を表記することは不可能と言われますが、
神楽歌の歌詞表記にも
「これちもなし」と「これちもなし」といった揺れが見られます。
古代のハ行発音は、現代のよりも、ファプァとかフォプォ
近かったと言われるため、曖昧な母音を心がけています。
古代のタ行にしても、現代と違い、ティテュ…に近かったらしく、
「せおり」と書き、「せおり」と書いても、発音は現代のよりも
似通っていたのでは? と想像を逞しくしています。
 
演奏修業後、今日は富士山がきれいに見えていたため、運転手さんに
御穗神社へは行かず、突端の東海大学の施設付近から
富士山を撮りたいのですが?」と申し上げると
「道が混んでるので、突端まで行くと、何時に駅へ戻れるかわかりませんよ」
と言われ、半ば強引に御穗神社へ連れてゆかれました。
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観光地だけあって、外国人の方が境内を埋め尽くす勢いだったのですけれど
団体様が三保ノ松原へ移動されたので平穏な感じに撮れました。
北の鳥居まで歩いてゆくと案内板がありました。
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大国主に8つ以上の名前があると言われるのも瀬織津姫の場合と同じなので
取り敢えず、三穂津姫・三穂津彦という夫婦神に該当する神楽歌を
黒アゲハ群生地で演奏させていただきました。
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たくさん飛んでいたのに、撮れていないようですね。
黒アゲハでなく、白い蝶だったら、
紫式部風に「天女の舞もかくやありけむとおぼゆ」。