藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

東国三社(香取神宮 鹿島神宮 息栖神社)

2月16日は旧暦の元日。
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こちらは昨日↑神栖市息栖の息栖(いきす)神社に咲いていた梅の花
 
そして息栖神社の社伝を物語る礎石。
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実は、東国三社のうち、息栖神社にだけ行っていませんでした。
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鹿島神宮の社家で宮司の東(とう)実氏の著書『鹿島神宮(1968)に示された
上古の鹿島想定図によれば、香取海の出入口を押さえたことで
朝廷側は東国の征討・支配に成功したと言えるのではないでしょうか?
常陸国風土記』に「野のサヘキ、山のサヘキ」とありますが、
海上への道は封鎖されていたわけですから野山に潜伏するしか道はありません。
 
現在の息栖神社はGoogleMapの北緯35.88に鎮座し、
香取神宮および香取神宮の朱印地1000石のうち100石を分配されていたと
言われる摂社大戸(おほと)神社も同じ北緯35.88の線上にあります。
上の鹿島想定図が正しければ、南東の蚕霊神社などを元宮とする説は微妙ですね。
大同2年(806)まではもう少し北に鎮座していたかも知れません。
それにしても大戸天手力男命ですか…。
 
「オホ」とくれば、鹿島神宮の元宮たる大生(おほふ)神社を思い出します。
多氏は神武天皇の子 神八井耳命の後裔を名乗る日本最古の皇別氏族とされ、
「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも表記されてきました。
阿蘇国造の後裔 阿蘇神社神主家の阿蘇氏、
野国造の後裔 諏訪氏、金刺氏らの諏訪神党のほか、
常陸風土記』の行方郡板来村に関わる記述の中で初代仲(那珂)国造として
国栖と呼ばれた先住民の首魁を征討した建借間命も神八井耳命の子孫とされ、
その場所が旧大生原村の大生と呼ばれたところであったと伝えられています。
 
これは遠いからと言っていつまでも放置していてはいけませんね。
研究と修業を兼ねて出掛けることにしました。
が、MapFanによると息栖神社まで約2時間弱!? ざっと往復4時間の旅でした。
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今日も晴天です。こちらはトンビと一緒に走ってるところ。
このあと二度までもシラサギさんが伴走してくれました。
 
大戸神社へは急勾配の昇降でした。周囲は谷(ヤト・ヤツ)です。
まさか国栖の土地を奪い取って遷座したわけではありませんよね?
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(ヤト・ヤツ)が終わっても、まだその下に集落がありました。
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こちらが由緒↓
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明治まで香取神宮の摂社だったのに県社とは?!
神宮は別格だから県社じゃ役不足とばかり摂社に譲ったのでしょうか?
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表と裏の印象はこんなに違います。
まるで蜘蛛窟を抑えるようにビッシリと並べられた祠…。
 
ここからは橋を2つ渡らないと息栖神社へ行けません。
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トラックに煽られながら走り続けるジャイロキャノピーです。
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息栖神社は他の二社と比べると驚くほど小ぢんまりとしていました。
しかし社叢が素晴らしく、人工的建造物が苦手な私は大満足でした。
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ふらふらとこの道に足を踏み入れました。
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適度にお手入れをされているように感じました。
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ここが今日の舞台です。約25分の演奏修業でした。
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帰りは橋を1本渡ってから川沿いの道をひた走りました。↑17:00の空。
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↑17:10の空。
刻々と変わってゆく空をもっと撮りたかったのですけれど、
約30km走って信号機が5台しかないという土手沿いの道が狭くて
ノンストップで走らないと他の車に迷惑をかけるため我慢しました。
でも、肉眼が一番きれいに見えますよね。
2/15は寒くて震え上がりましたが、
久々のツーリングで大満足の「2016年の大晦日」となりました!