藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

将門ゆかりの神社 2

今日は風の強い一日でした。
風がやむのを待っていたこともあり、16時過ぎに家を出ようとすると
家人に「ずいぶん遅いね。着いたら暗くなってるんじゃないの?」と言われ
「それより風で飛ばされる方がこわい…」と言いつつ出掛けました。
 
伊奈町の遺跡はかなりまわったし、気になっているのは
以前訪れて全く成果のなかった市之代古墳群です。
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間宮林蔵記念館の北の狸渕(むじなぶち)の土手に上がり、稲豊橋を渡る直前に
取手市側を撮りました。眼前に横たわる台地に市之代古墳群があります。
取手市最北端となる市之代地区には、小貝川にかかる稲豊橋の周辺に
5世紀後半から6世紀中葉にかけての古墳15基が点在しているそうです。
 
地図上では、その市之代古墳群の北部に姫宮遺跡が隣接しています。
画像の雲が上っているように見える辺りに↑縄文時代姫宮遺跡があるはず。
ここから橋を渡りますが、今日は風が強かったので土手を走らず
ずっと香取海を走ってきて、狸渕で初めて土手にあがりました。
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↑こんな風です。が、稲豊橋を渡ります。
ノロノロと橋を渡ったらすぐ右折して姫宮神社を目指しました。
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姫宮神社はもともと小貝川を見渡せる場所にあったらしいのですが、
この地にあった西蔵寺が廃寺となったため遷座してきたのだそうです。
いえ、大事なのは姫宮神社ではなく、この地が縄文遺跡であること!
姫宮神社の祭神は「稲田姫尊」ということでクシナダヒメ?
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おっと、右側にも神額が架かっていました。
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「比め美屋」と書かれていますね。まさしく姫宮神社
しかも、姫宮神社の姫は將門の妾または三女で片目だったと言われているのです。
ただ、餅草で目をついて片目になったとの伝承はあくまでも言い伝えですし、
將門の時代に姫宮神社が在ったとしても、この地へはまだ遷座していません。
いずれにせよ姫なので、稲にまつわる姫の歌を歌いました。
 
縄文時代から人の営みがあったこの台地に来た最大の目的は空気を味わうこと。
そして將門も立ったかもしれない土地の変遷を調べること。
その上で今日の最終目的地たる守谷市鈴塚を目指します。
 
不思議なことに「平將門公史跡」と書かれた日枝神社をナビに入れたら
ほぼルート上に姫宮神社、ルート上に駒形神社が位置していました。
今日はこの3社へ行こうと決めたので、遠くても無駄なく
最短距離でまわれてラッキーでした。
 
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走っていたら神社らしきものが見えました。これが駒形神社でしょう。
「南乙子(おとご)」の交差点のすぐ横なので駐輪することはできません。
下に細い道が見えたのでぐるっと移動しました。
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もうすっかり桜の花が散ってしまいましたね…。
ふと左手を見ると、社殿に向かって少し高くなっているようです。
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社殿の奥に、こんなものがありました。
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駒形神社跡」?
もともと少し離れた石神神社境内社として祀られた経緯から
石神神社の境内に遷したことがあったそうです。(明治の一村一社の合祀令?)
すると、氏子が続々と流行り病に罹ったため元の場所に戻したと言います。
これは何の比喩なのかはわかりませんが、強烈ですよね!?
せっかくの機会なので、私は『其駒』を練習させてもらいました。
 
再びバイクで1-2分走ると「石神神社」の表示が目に入ってきました。
道路からユニークな本殿が見えています。
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周囲には人家が密集していて、まるで個人のお宅にある神社のようでした。
この画像は↑裏から撮影しましたが、鳥居のある場所の真ん前が
一般のお宅で、ボール遊びをされていたので正面からは撮れませんでした。
 
この先はもう真っ直ぐな道は通りません。
昔の街道といった雰囲気の高低差のある細い道をクネクネと走ります。
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あの坂を上った時、「高野」という住所表示が目に入りました。
帰宅して調べると、將門が紀州高野山金剛峯寺に倣って
海禅寺を創建したことがきっかけでつけられたことがわかりました。
北相馬郡誌』に「天慶元年(1194)、平將門は興世王の分城を築き今城村と
称したが、慶長年間(1596-1615)高野村と改めた」とあるそうです。
 
守谷市立高野小学校の校庭を眼下にしつつバイクを走らせていると
小川の手前で「ここを右折」とナビに言われてしまいました!?
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いや、これは無理でしょう…。先で左折できるかどうかわからないし。
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神社の入り口に関しては必ずと言っていいほど誤った指示を出されてきました。
鳥居が見えていたので自分の目を信じて、ここは直進しました。
しかし、樹木の少ない左半分は住宅地で、社殿は見えているのに入れません。
人様の敷地内で1枚撮らせていただきました!?
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いったん坂を下りて仕切り直しです。
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あの道を直進してきました。ここを鋭角に左折すると鳥居があります。
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しかし駐輪スペースがないため、さっき「右折」と言われた角から
小川を渡った右にある土手の道との合流点に停めました。
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バイクから撮った画像はこちら↓
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これは自然の要塞ですね。
地名の「鈴塚(すずか)」は、將門と同時期に乱を起こした純友が戦勝祈願のため
一緒に大鈴を埋めたとの伝説が生まれ、そこから名づけられたようですが?
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それが社殿の裏のこんもりです。たしかに何か埋まっていそうですが、
昭和54年(1979)の発掘調査で、この塚は古墳ではないと判明しています。
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それにしてもこの要塞は素晴らし過ぎます。
階段を上ると、鳥居の両サイドに↑このような平地が広がっていました。
上の台地から馬を入れて馬場として利用していたのではないでしょうか?
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さらに階段を上った奥にも平地が広がっていました。
 
また、社名や祭神はアテにならないと言ってきた通り、
ここが「鈴塚村」だった時代の地図には「妙見社」と書かれていました。
それでこそ坂東平氏です。「平將門公史跡」が真実味を帯びてきます。
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さ、帰ります。
ここが妙見社なら將門ならずとも坂東平氏の拠点の一つであったことは確かです。
ここまで地形を見に来た甲斐がありました。
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相馬氏が將門を遠祖と仰ぐ精神的支柱は「馬」と「妙見」でしょう。
下総相馬氏は衰退したものの、その伝統は陸奥相馬氏(中村相馬氏)の
相馬野馬追(さうまのまおひ)として現在まで受け継がれています。
相馬野馬追は相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の
三つの妙見社の祭礼として行なわれてきました。
 
ここ「鈴塚」に將門が妙見社を祀り、丘に馬場を造ったのではないかと
想像する理由は、將門の母の実家たる縣犬養家の所領地が「駒場」で
將門の祖父 縣犬養春枝は部領使(ことりづかひ)として
馬術レーニングを担当していたとの説があるからです。 
 
その「駒場」および邸宅があったとされる相馬惣代八幡宮あたりから
「鈴塚」の妙見社までは直線で僅か6kmほどの距離です。
その途中に遷座を拒んだ(?!)駒形神社もあります。
むろん坂東平氏にとっても馬の重要性は百も承知。
將門が相馬小次郎と名乗ったのも母方の実家への依存度を物語っていますね。