渟名河(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾(ひり)ひて 得し玉かも
惜(あたら)しき君の 老ゆらく惜(を)しも
『萬葉集』巻十三 三二四七
沼名河之 底奈流玉 求而 得之玉可毛 拾而 得之玉可毛 安多良思吉 君之 老落惜毛
「渟名河」は姫川の古名。「ぬ」には宝玉の意があり、姫川ではヒスイ。
ヒスイと言えば糸魚川! と思っていましたが、
ヒスイには硬玉と軟玉があり、宝石として認められるのは硬玉のみで
硬玉はモース硬度が6.5 - 7、軟玉は6 - 6.5。
精緻なヒスイ工芸が珍重される中国では軟玉しか取れず、
和田(ホータン)玉に見られる白っぽいものが主でした。
18世紀以降、ミャンマーから硬玉が輸入されるようになって
鮮やかな緑のものが好まれるようになったそうです。
すると、姫川によって運ばれたヒスイは古代の献上品として
高い価値を持っていたことになります。
神話によれば、その姫川を支配していたのがヌナカハヒメ。
出雲が玉造だから原材料調達のためか…と想像してしまいます。
婚姻によって支配権を手中にするやり方の比喩でしょうか?
いずれにせよ、紀元前後に百以上のクニがあったというのが定説ですから
資源を持つクニを狙うクニが存在しても不思議はありません。
そして各クニにはそれぞれの大国主がいる。
そんな攻防が日本神話のキモなのかと想像したりしています。
白馬村の名は標高2,932mの白馬岳(しろうまたけ)に由来すると思われますが、
昭和31年(1956)9月30日に北城村・神城村と合併しています。
そこを通る千国(ちくに)街道は、古くは松本安曇地方と越後を結ぶ唯一の動脈で
出雲から越後・科野へと進出したスハ神も
信州に都を作ろうとした天武天皇が派遣した勅使もここを通ったものと
想像しており、その足跡を辿れれば…という旅です。
今日は先週と逆コース。
こういうの姫川の瀬にぼこぼことありますが、ヒスイではないんですよね?
約50分の大糸線の旅は刻々と変わる景色を見ているだけで退屈しません。
そして今日は先日乗った中土より糸魚川寄りの北小谷まで迎えに来て頂きました。
そこから山へ上がり、深原の字宮諏訪神社を探します。
往古は越の国ヌナカハヒメの命一族の光被するところで、
スハ神の信州入国の御神跡との情報を得たためです。
場所を訊こうと小谷村役場へ電話しても「深原の神社と言えばわかる」の一点張り。
運転手さんに伝えてもわからないし、GoogleMapsには道が出ません。
恐ろしいほど遠回りをさせられ、やっと人家が見えてきたところで
方向音痴の私の直感が働き「左折して進めばあると思いますよ」と
申し上げましたが、運転手さんが民家へ訊きにいって下さいました。
「大当たりですよ、その先にあるそうです」ということで向かったものの
社殿は見えず、道もない…。
でも、この案内板があるんですから、道なき道を進むしかありません。
うわぁ!? 夥しい数の石祠があります。
あ、社殿が見えてきました‼ 本来ここは禁足地なのかもしれませんね…。
でも、鳥居の先も道なき道のようです。
ナビはここからうんと下の参道に行かせようとしていたんですね…。
いやあ、とんでもないことでした。直感に感謝です。
風が渡り、とても気持ちの良い空間でした!
帰りに↑画像左手の道を見つけました。
あれま!? 失礼しました!
樹齢1000年以上の大木がある古社でした。
帰りは「直進してみましょうか…」と恐る恐る1-2分進んだら、
往路「ここを曲がるんじゃないの?」と言いつつも
「行き止まりだと困るからナビ通りに行こう」と話したポイントに着きました!?
すると、10分以上もムダに走ったことになります。
道標もないっていうことは、来て貰いたくないってことですかね。
明治時代に創建されたから、社名は白馬神社でなく平川神社。
こ、これは…樹齢1000年以上の木が林立しています!
運転手さんが「ストーンサークルだったのではないか」と仰る
苔生した石が埋まっている辺りで演奏修行していると
「怪しい奴…」とばかり、氏子総代さんがいらっしゃいました。
「ここ嶺方は、白馬周辺では最も古い集落です。白馬駅周辺に
雨降を真似たような霧降とか霜降とかいう神社があるけれど
下の方に神社ができたのは、ずっとあとのことです」
「ああ良かった。何となくそんな気がしたので省略して上がってきたんです」
社殿の左手には山からの清流が音を立てて流れ、
高い木の上で鳴く鳥は、聴いたことのない歌を奏でてくれました!
姫川から戸隠方面へ行くには、このルートしかありません。
『日本書紀』の↑この記述に触れて以来ずっとルートが気になっていました。
以前、長野駅から戸隠へ行った時のルートはないなと感じていました。
にも拘わらず、大糸線は途中下車した場合、タクシーの便がないという理由で
なかなか来られなかったのですが、良い運転手さんに出会え、再訪しました。
今日はその運転手さんですら聞いたことがないと仰る鬼無里(きなさ)の
東京(ひがしのきょう)と西京(にしのきょう)へ行きます。
先ずは西京の春日神社です。
「しょっちゅう戸隠までお客さんを案内しているのに全く気づきませんでした。
初めて隣村の歴史に触れられました…」ということで、二人とも感動…。
春日神社の先を左折して山をどんどん登ると
二条・三条・四条…の地名だけでなく、加茂川まである東京です。
おおお…ありました、その名も加茂神社です。
社殿を無視して山に向かって演奏修行する私…。
私の後ろへまわった運転手さんは↓これを見つけて目がテンになっていました。
何と!? 私は三野王(みぬのわう)が検地測量の拠点とした場所に座っていたのです。
684年と言えば、今から1,334年前です。
風雪に耐えた石には、確かに「三」の字が刻まれていました。
うう…む、身体中の力が抜けました。
次の鬼無里神社では階段を上がる気力もありませんでした。
今日の最後は西京・東京の2社と同じく三野王が新都の鬼門に創建したという
白髯神社です。社殿が国の重要文化財に指定されています。
思いがけず、紫陽花が咲いていました!
こちらが重要文化財の社殿です。そして由緒書き↓
しかし、ここで新たな疑問が!?
先週行った小川村のどこかということになり、戸隠神社から見れば裏鬼門です。
そして、何より重要なことは、天武天皇は信州に遷都しようとしたわけではなく、
「都はふたところ、みところにつくれ」との自説を実現しようとしただけでした。
683年に難波京を置き、684年に新都造営のため信州で検地・測量をさせたのです。