藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

下総の鳥見神社

1/11に続き、下総国鳥見神社をまわりたいと思っています。
「鳥見」については「トビ」が訛ったものとの説を支持しています。
 
地名にせよ、神社にせよ、家人が多くの資料を提供してくれますが、
実際に役に立っているとは言えません。
ほとんどがヤマト王権以降の由緒だからです。
 
朝廷は、自ら創作した神々や天皇の名・歴史などを定着させるため(?)
"書物や武器等を持って出てくれば命を助ける"といった立て札で8世紀半ばまで
降伏を呼び掛けて、歴史を上書きしたのではなかったでしょうか。
貝塚が形成された時代の地名や社史を文字で知ろうなんてハナから無理な話…。
 
それでも数巻から成る地名事典を何種類も出してきてくれます。
そうそう、昨日は出掛けようとしたら大きな段ボールが4つも届き、
必死の思いでエレベータ前に並べました。
夜、帰宅した家人に文句を言うと、
「『群書類従』だよ」
「え?! それじゃあ100冊以上あったってこと?」
「そう、段ボール4つ全部。殆ど持ってたけど全巻揃いで売ってたから買った」
「………」
値段は訊きません。騒動の元なので。
 
2014年10月1日からデータベース化された
群書類従(30冊)、続群書類従(86冊)、『続々群書類従(17冊)
の全文が公開されているので私は必要な時に必要な箇所を読んでいます。
(これを買っちゃうなんて、さすが"本を目方で買う男"…!?)
 
まぼろしの地名を追ってもしようがないのですが、先ずは貝塚へ。
と、ここまで書いて就寝。
起床後、クール便を受け取ってから出発するつもりでいたら
14:30になってしまったので鳥見神社を諦め、布瀬(ふぜ)貝塚を目指しましたが!?
 
一昨日の夜、友人に
「はっきり言うけど、ユミは本当の方向音痴だから!」
と言われたばかりなのに、農道を走った方が近いんじゃないかと思い、
幹線道路を避けるルートをとってしまったのです。
ガソリンが残り1割を切っていたのに!?
地図を見ると通り道に幾つもガソリンスタンドがあったので。
 
ところが、行けども行けども、地図にあるガソリンスタンドがありません!!
ガソリンが焦げるような臭いが鼻をつき、もう底を尽いてるとわかっていても
どうしようもないのです。生きた心地がしませんでした。
やむなく進行方向と逆の 7店目を目指したところ、開いていました!
「ずいぶん入りますねぇ」
「ええ、ホンダは容量 5.9Lと書いてますが、6.9~7.0Lは入ると思います。
今日はギリギリ0.1Lくらいしか残ってないと思いますが?」
「ちょうど 7.0L入りましたよ。危ないところでしたね」
「………!?」
閉店して影も形もなくなっている店舗を載せているGoogleMapって…。
 
ナビでは目的地まで27分と出たのに、すでに60分以上経っており
帰りたくなりましたが、せっかく出かけてきたので元のルートに戻りました。
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あ、"シマ"が見えてきました。画像右のこんもりに布瀬貝塚があるはずです。
手賀沼水系の川を2本越えれば着くと思います。
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ふと左を見ると、コブ白鳥のペアがまったりしていました。
次の川にもまた居ました!!
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外来種が定住している現状を憂うべきながら、
まだ白鳥が生息できる自然が保たれていることが嬉しく思われます。
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近づいてきました。こんもりを囲むように道路が走っているようです。
古代「香取海」で何度となく見てきた光景です。
海から"シマ"を見れば、周囲は崖のようになっている所が多いかもしれません。
常陸国の縄文海進を見に行った時には明らかな崖でしたね。
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やはり古代「香取海」の"シマ"ですね。こんもりの南側にまわり込みました。
この台地斜面(現況:山林)↓が縄文(早期+前期+中期)布瀬貝塚です。
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布瀬貝塚からは、縄文土器(茅山式・諸磯b式・黒浜式・阿玉台式・加曽利E式)、
磨製石斧・打製石斧、石鏃・牙鏃、貝刃、凹石、土錘に加え、
貝類(ハマグリ・シオフキ・オキシジミ)、獣骨、人骨が出土しているそうです。
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この台地にあがるため、Uターンして元の道に戻りました。
右から来たので、左折してのぼればよさそうです。
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この時間、北側斜面は暗いですね。
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台地の西から上がった道の正面(東奥)
文武2年(698)創建の香取鳥見両神がありました。
まるで征服されましたと言ってるような名前ですね?
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鳥居をくぐると長い参道が続き、両側に小さな祠や石碑が点在しています。
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バイクで走れなくもなさそうですが、さすがに鳥居の外に停めて歩いてます。
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これは?
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社殿が見え始めると、左側にはビッシリと境内社が並んでいました。
明治の一村一社の合祀令によるものでしょうか?
日本中どこへ行っても呉越同舟!?
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奥へまわり込むと、本殿の覆屋が立派すぎて驚きました。
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はい、たしかに香取鳥見両神でした。
創建時にこのような名称だったはずはないとしても、朝廷が
古代「香取海」の拠点として必要とした台地であろうことは想像できます。
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布瀬貝塚のある台地から古代「香取海」へ下り、先日行った小林を目指します。
ここから筑波山を目指したであろう朝廷軍に思いを馳せつつ左手を見ると
中央に横たわる台地が神生(かんの)貝塚・東栗山貝塚に代表される
夥しい数の縄文遺跡を有する旧伊奈町なのではないかと思われました。
平将門の拠点の一つ相馬惣代八幡宮岡神社がある縄文の遺跡密集地のようです。
 
ひたすら東を目指しますが、成田線の駅名で言うと、真北が「新木(あらき)」、
次が「布佐」(お約束なので「フサ」「フセ」の語尾変化は考えました!?)
そして「木下(きおろし)」「小林」です。
先日は「小林」駅から見える"彦地山"が気になって上がってみると
御嶽神社がありました。もっとも明治2年鎮座ということで
それ以前というか古代の祭祀に関しては見当もつきませんが。
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ただ、この地形が気になったので再訪しました。
まるで幾つもの入江をもつ"島"のように見えます。
現在、丘陵と丘陵の間を走っている道路が古代の海岸線なのか、
切り拓かれたものなのか、わかりませんが、地図を見ると
それぞれの頂には神社があります。
成田線を渡って成田方面へ曲がると、最初が浅間神社でした。
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これを崖と呼ばずに何と呼ぶのでしょうか。
私にはこの階段をのぼってゆく勇気はありません。
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次のこんもりの頂には東大社というものが再建されているらしい…。
三叉路に面していて、あまりにも社頭が狭いので離れて撮影してみました。
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ひょえ~~~とても登れません。
他に登り口はないかと左折して探しましたが、見つからず、
明らかに私道と思われる人家への道をあがってみても
人の住んでいない家があっただけで登れる道などありません。
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覚悟を決めて、ここから登ることにしました。
キャノピーのBoxの鍵を付け替えて貰ったばかりなので、ヘルメットを入れて。
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いやぁ迫力満点ですわ!?
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これが東大社ですか…。
『日本の神々(11 関東)』には、香取郡東庄町宮本の東大神について
「古くは香取神宮末社であったとも、香取神宮の祭神経津主神二十世の裔
香取連が創祀したともいう」とあり、この東大神を勧請したものかと…。
 
この左手に開けた道があったので歩いてみました。
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この鉄塔はどうやって建てたのでしょう?
手前の三角点のようなものはなんでしょう?
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読めません…。上の字は「千」のようですが。
もしかして、この先に尾根を貫く道があるのでしょうか?
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車で走れるとは思えませんが、登り口が見つかったらバイクで来られたかも?
歩いて確認してみたいけれど、バイクがあるので来た道を戻ります。
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本当に急勾配です。やっとバイクが見えました。
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眼前に「香取海」が広がっていたなら…と考えたらワクワクしました。
この時ちょうど17:00。暗くなるのが怖かったのですが、登ってよかったです。
そして、この先のこんもりが先日行った"彦地山"です。
 
実は、小林鳥見神社の由緒を調べていたら
「元は現在地から北に数百mの高台にあったとされ、そこが景行天皇が登った
"鳥見ヶ丘"であるとも伝わる」というメチャクチャな伝承があったため
"鳥見ヶ丘"の候補地の一つとして行ってみた次第です。
しかし、候補地と思しき台地にはすでに御嶽神社東大社が鎮座していました。
他にも候補地が見つかったら再訪するかもしれません。
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17:04に撮影した浅間神社のあるこんもり。
ここも候補地でしょうけれど、とてもこの頂へ上がれるとは思えません。
(チャンスがあるとしたらヘビが出ない冬なんですけどね…)
 
17:27、利根川の向こうに富士山が見えました。
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