藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

トビ→トミ→トリミ?

宇陀市榛原萩原の鳥見神社へ行ったのは去年の10/21、
吉隠(よなばり)へ行ったあとでした。
 
「物部」について知りたいと思っているなら、どう考えても遅すぎますよね?
演奏修行旅を始めた当初、対馬で「シキ・シカ・シコ」に気づいた私は
当然ながら「トビ・トベ・トバ」と妄想しています。
 
しかしながら、桜井市戸山(とび)鳥見山(とみやま/245m)等彌(とみ)神社
宇陀市榛原萩原に鳥見(とりみ)神社鳥見山(とりみやま/735m/現住所=桜井市白木)
さらに奈良市石木町にも登彌(とみ)神社…となると
ちょっと手に負えない感じで、まだ等彌神社へは行っていません。
登彌神社へは去年の9/23、「六御縣」を巡る途中に立ち寄りました。
 
そして、去年の2/7にオオハクチョウコハクチョウを見に旧印旛郡本埜村
行く際に神社を調べたら、付近に22社もの鳥見(とみ・とりみ)神社があったのです。
 
もしかすると、大和を追われて下総へ民族大移動をしたのに
今度は朝廷軍たる鹿島香取の神に駆逐されたのでしょうか?
下総国では多くの鳥見神社の由緒に「再興された」とありました。
 
当時まだ大和の「トビ」へ行っていなかったので下総の「鳥見」はパス。
ようやく1/11に重い腰をあげた次第です。
鳥見(とみ・とりみ)の発音に関しては、
神武記の「金色の霊しき鵄(トビ)」の場面にあるように
「トビ」が「鳥見(トミ)」と訛ったのだとしたら、
「鳥見(トリミ)」の方は単なる現代語読みかもしれません。
 
利根川を渡り、手賀沼水系(?)の川を通っていると、ユリカモメがいました。
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成田線木下駅」の近くです。「木下」の発音は
アイヌ語ふうに「ボッケ」かと想像していたら「きおろし」でした!?
狭い道へ入り、神社を探していたら、右に何か出土しそうな土地がありました。
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この手前に「上宿古墳」がありましたが、個人宅なので遠慮しました。
右ばかり見て走っていたら、正面突き当りが大森鳥見(とみ)神社でした。
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右の「急カーブ 速度落せ」の標識を右折すると急な下り坂になります。
そう、ここは古代香取海(かとりのうみ)の"シマ"なんです。
それゆえ今日(1/11)は坂を登って下りて各"島"の鳥見神社を巡ったのでした。
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なかなかダイナミックな社叢です。
創建は崇神5年(紀元前93年?!)大和国城上郡鳥見白庭山の
鳥見大明神を勧請したと伝わります。すると登彌神社系?
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奥の本殿のまわりには何とレンガの塀が!?
緻密な彫刻が施されていることにも驚きました。
彫師は後藤縫之助(1825-1901)で製作年代は文久3年(1863)
茨城県岩井市猫実に生まれた縫之助は、笠間の彫刻師十代後藤茂右衛門に師事し、
嘉永2年(1857)に笠間で独立して笠間稲荷などの彫物を手がけたそうです。
 
40日ぶりの演奏修行にはもったいないような舞台でした。
次はここから数分の和泉鳥見(とりみ)神社です。
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あ、あれかな? GoogleMapは農道や林道を無視するため
ナビ通りに走ると遠回りになるので勘を頼りに走ってます。
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当社も「大和国白庭山から鳥見大明神を勧請」とありますが、
大森よりかなり年代が新しい印象。或いは大森から勧請したか?
今日は13:50に家を出たため、サクサクと先を急ぎます。
次は今日最も遠い(と言ってもここから30分ほどの)萩原鳥見神社です。
 
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さっき右折した三叉路へ戻り直進すると、こんな風景が!?
江戸時代、 印西市白井市の一帯には「印西牧」と呼ばれた幕府の
直営牧場があったという話も納得できます。
ところが、ほどなく工業団地のような一角へ突入し、そこを抜けたら
北総線にぶつかり、凄い道路へ出ました。
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私は北総線の北側を成田方面へ左折。
住宅が立ち並ぶ北総線の南側は鎌ヶ谷市松戸市方面への道です。
北総線は道路二本の谷間を走っており、対向車が来ないので走りやすいこと!!
郊外型大規模小売店がビッシリ1km以上並んでいたことにも驚きました。
これでは小規模小売店は太刀打ちできないでしょう…。
 
そんな道路を一本入ると、すぐ昔ながらの道になります。
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あの三叉路に鎮座しているのが萩原鳥見神社でしょう。
左の道はやはり急な下り坂でした。
鳥居前には停められないので、私は向かって右の道を進みます。
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蜘蛛窟を思わせるこんもりが途切れた場所から本殿へ行けました。
ぐるっと廻ると、周囲のこんもりの上に数多くの石碑や祠が点在しています。
ここには古代っぽい雰囲気がありますが、紀元前と言われても実感がわきません。
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怪しい女が写り込んでしまい申し訳ありません。
どうしても現物を見ていただきたくて…。
わざわざ彫るのに「第五代 天皇」というのはいかがなものでしょう。
「第五代 天皇」の間違いであることは明白ですが…。
そして
大和国城上郡萩原村(現 宇陀市榛原萩原)鳥見山の神々の霊を当地に遷座した」
との由緒が重要でしょう。
 
私が今一つ「物部」を理解できないのは、多くの方が
第一次「物部」(縄文?)と第二次「物部」(弥生?)があると言われるためです。
中でも大和国白庭山の「白」を朝鮮半島と結び付けて
渡来系「物部」と仰る方の根拠がはっきりしません。
ならば、大和国萩原村の鳥見神社縄文時代からの「物部」なのでしょうか?
既に1,600社以上まわっているのに、まだまだ「物部」すら理解できてません。
 
さて、次の中根鳥見神社へ行く前に白鳥の飛来地に立ち寄ってみます。
去年は暖冬で飛来が遅かったのに、今年は年明け早々に去年の半分の
400羽あまりが飛来しているそうなので…。
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このとき16:17。まだ全員が戻っていないようですね。
見物人から遠い場所に陣取っていますし。
望遠レンズを持参しなかったので、何を撮っているのやらわかりません。
 
次の中根鳥見神社崇神天皇5年の創建だそうで、
祭神は、饒速日命・宇摩志眞知命・御炊屋姫命。
『千葉縣本埜村誌』には景行天皇40年に日本武尊が東夷を征伐した際、
当地に大和国鳥見山の神霊を祀って東国の鎮神としたとあるそうです。
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走っていたら、突然右手に神社らしきものが見えました。
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右の石碑に「村社鳥見神社」とあり、その後ろが「猿田彦命」の石碑でした。
この時点で16:30ですから、バイクに乗ったまま撮影して先を急ぎます。
今日はあと小林の鳥見神社のみ、と「小林駅」まで走ると
左手に気になるこんもりが!?
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16:35、まだ直進しなくてはならないのに、つい左折してしまいました。
細い坂を登ってゆくと、こんもりは竹林でした。
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この奥には絶対に神社があるはず!!
例のごとく、舗装されていない道に入ってゆきますと、あやしい雰囲気に…。
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このとき16:43、実際には画像より暗く、視力0.05の私は碑文を読めません。
あとで確認できるよう画像のみ撮っておきました。
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ここは昭和59年に再建された御嶽神社でした。
「みたけ」ではなく「おんたけさん」のようです。
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御嶽山」はド迫力の所が多いようですね。
そして再建された社殿はこちら↓
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お正月飾りもありません。
さあ、小林鳥見神社へ急ぎましょう。
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こんな道を入って来たんだ…(原付さまさまでございます!?)
帰宅後、以下の由緒を見つけました。
「小林御嶽神社明治2年巳己11月朔日鈴木喜久ェ門邦馬と祭主(神官)
道祖土常睦信親によって"彦地山"に鎮座された」
すると、それ以前の"彦地山"には何があったのでしょう?
 
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小林鳥見神社は道路脇にあったのでバイクに乗ったまま撮影しました。
ここでちょうど17時。家を出てから3時間経過しています。
もう暗いので帰宅しますが、この300m先に古墳がありました。
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帰宅後、検索しますと、小林の道作古墳群のようでした。
すると、小林鳥見神社のある高台は古代からの生活圏ということになりますね。
この先を右折しますと、左手に気になる神社が!?
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平岡の鳥見神社のようです。
蜘蛛窟らしきものがあるので再訪しなくてはなりませんね。
17:07、バイクのヘッドライトで照らしてやっとシャッターを切れました。
直進すると成田線にぶつかったので左折して利根川沿いの道を目指します。
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このとき17:09、帰宅したのが17:37でした。
四国へ戻るのが2月になりそうなので、また来るかもしれません。
「トビ・トミ」に関する決定的なヒントは期待できませんが、リハビリがてら。