現在、主に香取海(かとりのうみ)に棲息している私の探索。
日々風の向くまま気の向くまま、下調べ無しに走ってます。
西へ南へ走ったので、今日は東へ行ってみました。
このあたり香取海を走っていますが、台地がある場所は河内郡だったようです。
古代の河内郡については泊崎(はっさき)弘法大師堂のブログに書きました。
要するに発音は「コーチ」が優勢。平安時代中期(934年頃)の
『和名類聚抄』(倭名類聚鈔)が読みを「甲知」(かふち)としていたためです。
最初に目指したのは江戸時代末期に旗本領だった長峰村。
(長い峰=台地 or 長氏が治めた土地?)
来ましたねぇ、その名も「長峰沖」!
この位置関係だと古代からここにあったという感じではありませんね。
先を急ぎましょう。
以前、ちょっと信じられない由緒を見かけてメモしておいた神社です。
いや、しかし、いくら地図を見ても登り口がわかりません。
地元では古墳と言う人もあるこんもりの周囲をグルグルまわり、
バイクならではの足まわりで強引に上がって行ったら眺望が開けました!
(この数年でこういう馬鹿力だけは身につきました!?)
鳥居が見えてます。ということは左手が社殿でしょう。
社殿や鳥居に到達する前に、たくさんの石祠に出合いました。
やっぱり古墳っぽいですよね?
拝殿は集会所みたいで、扁額もありませんが、地図上は猿田彦神社。
本殿は元文4年(1739)築だそうです。
覆屋の隙間から撮りました。
ここ板橋村は幕末に上野(こうづけ)前橋藩の管轄だったとか!?
そして驚きの由緒が
村の鎮守とした。御祭神は猿田彦命・大宮廼売命」です。
なぜわざわざ讃岐から?
ただし祭神は「田村神」で、その中身は時代により変化しています。
近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など、
現在は
この祭神の変化は水主神社から祭神「倭迹迹日百襲姫命」と
一ノ宮の地位を譲って貰ったとの逸話と合致しています。
話を常陸国河内郡に戻しましょう。
「田村神」は猿田彦大神で間違いありません。
植えつけられているため、猿田彦と言われて驚いた次第です。
ただし、この台地(古墳?)では神社が建つ前から祭祀が行なわれていたでしょう。
山や丘のてっぺんにある円形の広場は古代祭祀の舞台の一つとされています。
ここで太陽の光と強風を身に纏いながら演奏できてラッキーでした。
さあ、丘を下って次の丘へ向かいます(↑ちゃんと道があった!?)。
こちらも不思議な由緒です。
名称が新宮神社なのに熊野系ではなく、
祭神が息長帯媛命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后だというのです。
ざっくり考えて、海人族の斎く神と言えるのではないかと思われますが?
分霊を勧請、桑山は創建年代不明とのこと。
(同じ稲敷市ながら、市のHPには東大沼しか載ってません)
「おしんこさま」と呼ばれる東大沼新宮神社の手前まで行ったものの、
由緒のわからない無格社の方が気になって引き返し、桑山新宮神社へ。
おおぉ…↑境内の由緒書に「古新宮神社」とありました。
ここも丘のてっぺんにあります。
一ノ鳥居をくぐったら谷(ヤツ・ヤト)に囲まれていました。
サヘキやクズといったまつろわぬ民の征討をイメージしてしまいます。
二ノ鳥居の奥には古代祭祀場を思わせる円形広場がありました。
この御神木の素晴らしいこと!
もう一方の御神木の根元にはたくさんの石祠が置かれています。
古代祭祀場をイメージさせる広場に座ると夕陽が射してきました。
この広場の中央に伊弉諾神宮の「陽の道しるべ図」のようなものを置けば
季節や方角を知ることができますね。
ううむ、これは…、古墳と思しき場所でウヅヒコとウヅメの歌&《神擧》を
演奏してきたばかりですが、《神擧》に再挑戦せざるを得ませんね。
というわけで、一日に二度も難曲に挑んでしまった私。
ここからバイクで西に30分ほど走ったら、変わった雲が見えてきました!?
17:15に撮った画像です。
ずっと雲が昇ってゆくさまを見ながら走っているうちに
「ああ、これが私がイメージする蛟蝄神社のミツチの形状か…」と感じました。
勝手に、ミ(巳=ヘビ)+ツチ(日本に生息すると言い伝えられている未確認動物で
胴が槌のように太いヘビと形容される槌の子)の想像を脹らませています!?
興味が尽きませんね…香取海!