藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

荘内半島にガソリンスタンド無し!

いま困っている訳ではないけれど、今後のためにガス給湯器を交換しておこう
というプロジェクトのため帰省。まさか、それだけじゃあ…と思いますよね?
ともかくZOOMERに乗るのが最大の喜びなので、午後は再び荘内半島へ。
いつものように、左手に善通寺五岳を見ながら西進します。
今まで気づかなかったのですが、この道の先に加茂神社があるらしい。
お?! 神社の参道を優先するかのように道路が左方向に曲がってますね。
場所(住所)はたぶん多度津。宇多津と多度津は、ともにかつての「こんぴら街道」
入口の港でしたが、多度津は往古、その名の通りタタラ製鉄に関係していました。
南鴨とは?!
下加茂社の御供田が六十町あった」と言われるのは、京都の下鴨神社らしいですね。
「京都賀茂神社の別宮として勧請された」ともありますが、古墳は関係ないでしょう。
無関係だと感じるのは、もし同族や祖神の墓なら、こんな風には扱わないだろうから。
かなり時代の違う石材を適当に組み合わせて見せ物にした感がありますね。
土着の勢力が中央からの征服者に屈するという古代のシステムを見せられてる?
最初に道路から見た鳥居をくぐると、正面に加茂神社の社殿がありますが、
上の案内板のある鳥居から入ると正面は↑この荒魂社になります。
御神木の大きさから、こちらの方が先住神に見えてしまうのですが?
「荒魂」とか「土蜘蛛」には先住民に関わる言葉のイメージがありますし、
京都の上賀茂下鴨との関連を含め、今後、多度津の加茂について調べを進めます。
荒魂社に向かって左手が加茂神社の社殿になります。
 
先を急ぎましょう。今日は和牛を食す?晩餐に誘われていますので。
津嶋神社を過ぎた辺りで荘内半島を撮ってみました。中央右奥が紫雲出山でしょうか?
そのままどんどん直進していたら、左手に大きな看板が!?
ナビは直進と言ってますが、道路脇に浪打八幡宮が見えたので立ち寄ります。
浪打」というくらいですから、往古この道路は海だったということでしょう。
1953年より港湾開発が行なわれ、塩田跡地や埋立地が臨海工業地域になったそうです。
あれま!? 尾長鶏?5羽が闊歩してます。
鳥居をくぐると階段なので、ナビが別の入り口を推奨しているのかもしれません。
おおお…、これはまた、さっきの社頭とは大違いですね。
さっきは「表参道」、こちらは「旧参道」とあります。
ただし、古代の雰囲気が感じられる石段には「裏参道」とありますよ。
この右手の坂をバイクで上がれそうなので、急勾配をのぼってみます。
石段を登り切ったのと同じ場所に着きました。なぜ後醍醐天皇の皇子 宗良親王の社が?
社伝に「元弘2年(1332)宗良親王詫間に流謫」とあり、たしかに宗良親王(1311-85)
1330年に天台座主に任じられた後、元弘の変で讃岐国流罪となっています。ただし
詳細が話題になることは殆どなく、讃岐での実態は詳らかになっていません。そのため
私は「松山といふ所に行きて月日を送り侍りしに」で始まる宗良親王の歌(『新葉和歌集』)
着目しています。「松山」は讃岐国府の港で、1156年に流罪となった崇徳上皇が上陸した
「松山の津」(坂出市東部)でもあるため、詫間→松山移動説を否定するのは難しいと思います。
崇徳上皇の場合は直島に「崇徳天皇宮」があって、松山の津を目指す途中に船が流された
可能性が指摘されており、宗良親王の場合も詫間に漂着した後、改めて国府の管理下に
置かれるため松山へ移動させられた可能性を疑ってみる必要があるのではないでしょうか?
なお、宗良親王の陵墓の有力候補は、1344年以降30年にわたり拠点としていた長野県
大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔ですが、明治政府は1873年静岡県井伊谷宮の墳墓を
宗良親王の陵墓と定めています。歴史上、こうしたことは少なくないように思います。
 
浪打八幡宮の由緒は、当地の丸岡家に残る「丸岡家文書」を根拠としているそうです。
創建は、敏達天皇(538-585)の皇子 高村親王推古天皇の勅命で南海の大乱を平定後、
讃岐三野郡詫間に御殿を造営し、安居されていたことに遡ると書かれています。
推古12年(604) 8月14日の夜、高村親王が夢の中で高波の中に浮かぶ光る物を見つけ、
手に取るとその金色の木像がこう話しました。
「我は敏達天皇が彫った八幡神で、敏達天皇崩御後、内裏の宝蔵の中に納められ
見向きもされなくなってしまった。この度は子孫である高村親王を懐かしく思い、
難波の港から詫間の入江にやってきた。これから先はこの地に留まろうと思う」と。
この時代、詫間天皇直轄地(天領)であり、ヤマト政権が必要とする兵馬を飼育する
「詫馬牧」があったと記す書籍がある。
ですって?
天領」って、いつの時代の話をされているのでしょうか?
天領」は俗称で、江戸時代における江戸幕府の直轄地を指します。
江戸幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など呼称は様々あれど、
以上の呼び名は正式な歴史用語ではありません。
江戸幕府での正式名は「御料・御領(ごりょう)」でした。
こうした幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代からで、
江戸時代に使われていた呼称ではないそうです。
大政奉還後に「天朝の御料」などの略語として「天領」と呼ばれ始めたとのことです。
「詫馬牧」にしても、正式な記録は見当たらず、もし記録があるなら教えて頂きたい。
これまでも社伝を鵜呑みにしたことはありませんが、当社の場合も難しいですね。
 
浪打八幡宮の社殿は2007年の放火によって全焼し、2011年に新社殿が完成しています。
「順路」が示されていたので、一周してみました。
素晴らしい建造物を氏子の皆様に見ていただきたいとの配慮かと思われますが、
私には↓こちらの方が興味深かった。
本殿の真後ろですが、瓦なども捨てられているようです。
ぐるりとまわって、バイクまで戻りました。
下山途中、古い石垣が何層にもなっていたので、城塞だった時代があったのでしょうか?
 
前回行けなかった荘内半島最西端の集落「室浜」を目指していますが、ちょっと休憩。
いかなる偶然か、チョコレート好きの家人用にお取り寄せしているショップが!!
前回貼りつけた荘内半島が二つの島だったことを示す地図ですが、
今は陸続きになっている島と島を船で渡っていた場所の地名が「船越」です。
ここが海で隔てられていた時代の名残かと思います。
この位置から120mほど南西になる(旧)大浜小学校跡を利用して営業されています。
前回も立ち寄りましたが、イベント前日でイートインコーナーが閉鎖されていました。
チョコレートはもちろん、お弁当もあり、イートインスペースのコーヒーは無料です!
遅いお昼としてお弁当を食べ、コーヒーを頂いたので、室浜まで行く気力が出ました。
ガソリンについては、どこかにスタンドがあるだろうと呑気に構えていましたが…?
あ、あれは前回行った蛭子宮の突端に位置する「箱崎灯台」ではありませんか!?
改めて見ると、今は陸続きですが、太古は「近の島」だったのではないかと思えます。
この箱浦漁港から見える善通寺五岳も絶景なんですよね~(殆ど船越と同じですが)
前回、この坂を下ってきて、海が見えた瞬間、おおお…と声が出ました!
すごい道!? 前回は真ん中の道を生里方面から走ってきました。今日初めて右折します。
この辺りまで来たら、もうガソリンの心配は頭から抜け落ちていました!?
高低差のある道をひたすら走ったら、「室浜大明神のシンパク」が見えました。
この道の先はもう行き止まりです。
海岸線に沿って三埼灯台へ行くことはできないとわかりました。
 
朝からずっと曇天で気温16℃だったのですが、さっき演奏したら
室浜に着くまでに太陽が出て、上着を脱ぐほど暑くなっていました。
倭琴に楓の琴柱の影が出てます。演奏中はお天気の変化を影で感じられます。
それにしても、楽譜がもうビリビリです。
新しくコピーして、琴の手を書き込もうと思いつつ出来ませんでした。
あと少しでYouTube伊福部昭の音楽』(室内楽)へ全曲アップできますので
その後、楽譜を整え、発声を、二度といわゆるクラシックに戻れないよう
徹底的に追い込んでゆきます。二足の草鞋は履けませんので。
「香川の保存木」かぁ…。ビャクシン(柏槇)の別名は「イブキ」ですって!?
日差しが強く、乾燥した砂地を好むから、ここまで大きく成長したんでしょうね…
なんて暢気なことを考えつつ写真を撮っていたわけですが、いざ帰ろうとしたら
エンジンがかかりません! 調子が悪いという感じではなく、無反応。
ここでやっとガソリンがゼロになっていたことに気づいた次第です。
iPadでガソリンスタンドを検索し、一番近い(30分程の距離)お店に電話をかけてみました。
「室浜は遠いねえ、車種は何? 原付? そりゃ無理だ」
(瞬時に、四輪じゃ無いからリッターが少なすぎると仰りたいのだと察しました)
「ガソリンが無いと動けませんので、無理を承知でお願いしております。
3L=3,000円でガソリンを持ってきていただけませんでしょうか?」
「じゃあ何時になるかわからないけど、行きます」
「恐縮ですが、夕方、約束が入っていまして出来るだけ早くお願いできれば…」
ということで、30分強待機し、ガソリンを入れて頂きました~~~♪
原付免許を取って50年余、初めての失態です。
 
待っている間はずっと、海を見ながら伊福部先生の『ピアノ組曲』を聴いていました。
燃料屋さんが大音量に驚きつつガソリンを入れてくれたので、
ダメ元で左の山道を登ってみたら、勾配がキツく、エンジンが悲鳴をあげました。
道標がある場所まで上がりましたが、もはやこれまで!?
右側は崖ですし、ここで方向転換するしかないでしょう。
ZOOMERを置いて、徒歩で少し上がってみましたが、このルートも厳しそうです。
三埼灯台への道遠し。
再び海岸線をバイクで走っていたら、珍しい光景が!?
ああ…瀬戸内海って感じですよね。
分岐まで引き返し、さらに走ると、往路は曇っていて写真を撮る気が
起きなかった「フラワーパーク浦島」まで来ました。
あっ、中央に讃岐富士が写ってます。瀬戸大橋も薄っすらと。
この先にも、前回讃岐富士を撮ったスポットがあるんですよ。
讃岐富士はあまりはっきり撮れてませんが、このお宅が羨ましいです。
毎日瀬戸内海を見ながら過ごせたらいいですね…。
いつもの津嶋神社ですが、干潮時に撮ったのは初めてかも? 歩いて渡れるやん。
坂出高校の同級生に多度津の子が居て、最近、津嶋神社の話をしていた時、
「3歳から5歳くらいの頃、何度か津嶋神社のお稚児さんをした」と聞いてビックリ!?
それじゃあ私は3歳から5歳くらいまで毎年、彼女を拝んでいたことになるのかもね…。
もう18時近くなったので、急いで帰宅中。
この角度からだと今一つ形の悪い讃岐富士を撮っていたら
カラスが私と同じく慌てて帰巣中?!