おはようございます! 約一ヶ月ぶりの遠出です。
行く行くと言ってもなかなか出かけられないのが乳母の身。
晴天に恵まれた今日は、上野国の官牧が置かれていた駒屋形や
大蛇が琴の音に随喜の涙を流し龍王に姿を変えたという伝説の場所などを
まわる予定です。いつものように五月雨式にUPします。
ゆく先々で演奏修行できると有り難いのですが、百発百中とはいきません。
こんなところで演奏したら気が違っているとしか思われないという神社が
増えています。下野国ではお寺も無住の場合が多いとのことでした。
すでに社殿が朽ち果てている場合もあり、祭神の調査も困難な状況です。
いろんな意味でラストチャンスだと思っています。
本日の一社目、扁額に「抜鉾大明神社」とあった菊地町の抜鉾神社です。
この「抜鉾」は今日のテーマの一つですが、高崎駅周辺が大変な混雑で
移動時間が押してしまい、駒屋形など3社を素通りせざるを得なくなりました。
神社は川沿いにある場合が多く、橋を渡るのに厖大な時間がかかったため。
結局、帰りの新幹線にも遅れ、辛うじて自由席にバラバラに座っています。
ということで、次に向かったのが山の中にある抜鉾大明神。
神社入口にあるイチョウの巨木に圧倒されました。
最も古い記録は『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸)・大同元年牒(806)の
「上野抜鋒神 二戸」とされています。
840年~858年の間に「抜鋒神」→「貫前神」になったと考えられます。
韓からの渡来人が多く住み、「から」から「かんら」の地名になったのだとか。
神楽歌の解説に「桙」と「鉾」は表記が違っても同じと考えてよいとあったので、
社殿を通り越して、石祠が点在する斜面で《桙》を演奏してみました。
次が、抜鉾大明神が一宮へ遷座する前に鎮座したという咲前(さきさき)神社。
社殿の両脇に石が置かれていました。
この説明がふざけきっています。ネズミ!? ネコ?!
「根子石」ときたら何を暗示しているかは明白でしょう。
貫前神社の社伝とされる
白鳳元年(650)に抜鉾大神は蓬丘菖蒲谷に遷され、
前宮跡は先宮(さきのみや→鷺宮)とされ咲前神社が祀られた。
との説もあるようで訳がわかりません(年代がとほほ…です)。
ともかく抜鉾大明神→咲前神社→貫前神社と山から南西に下ってみました。
これはまた面妖な?! 小高い丘を登って門に着いたら階段を下る形です。
社殿まで行かれた方もおられましたが、人工建造物に興味がない私はパス。
一本奥に見えるのがスダジイです。
というわけで社殿への階段は下りず、ここに陣取りました。
まぁ、誰がどう見ても頭がおかしい人にしか見えないでしょうけれど…。
すぐ近くに縄文後期の神籠石を御神体とする蛇宮神社がありました。
この石がそれほど古いものなのか、はたまた年代を経ているのかはわかりません。
それよりも度肝を抜かれたのが御嶽神社と書かれたオブジェです。
どうも御嶽神社には日本的でないオブジェを置いた例が少なくありませんね。
ああぁ…もうダメ…ということで社殿もオブジェも無視。
道路から南を見ればこんなに素晴らしい景色がひろがっています。
今日は新潟方面で天候が崩れているとのことで微妙な空模様。
演奏していたら空がパカッと割れて晴れましたが、むしろこの空に趣を感じます。
やはり風や鳥の声などを感じながらの演奏は気持ちがいいですねぇ…。
(というか、もうそれしか楽しめないまでになっています!?)
ここから前橋方面へ向かうのに、逆にちょっと南下して辛科(からしな)神社へ。
ここで見たいものがありました。
上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡のど真ん中を割譲させて「多胡郡」を置いた記録?
実は「辛科=韓級(からしな)」が宮中の「園韓神」のヒントになりはしないかとの
期待も込めて立ち寄ったのです。
前々から拝殿のこの彫刻を見たかったのです。
琴にまつわるこうした伝承は珍しいのではないでしょうか?
古いからか、不気味さすら感じる彫り物です。
この時もう17時近くなっていましたが、新幹線の指定席を捨てて
予定していた朝倉の八幡山古墳へ行きました。
県下屈指の古墳群があります。中でも八幡山古墳は国指定史跡ですが、公園?
そして古墳を踏みつけて歩きまわる人々…(散歩コースとなっているようです)。
着いた時には楽譜が読めないくらい暗くなっていましたが、
ここで初めて、念願の《朝倉》を演奏してみました。
もうすっかり気温が下がったのでコートを着ている上、
風が強いのでケースを風除けにして譜面を置いています、ごめんなさい。
古代、ヤマト王権誕生以前にあったとされるクニの中心を示す古墳で
《朝倉》を演奏できたことは、とても楽しく学びの多い体験でした。