藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

甲府盆地は湖だった?!

甲府盆地には地底湖説や湖水伝説があって以前から興味を持っていました。
地誌類のみならず、甲府市穴切大神社韮崎市の苗敷山穂見神社などにも
湖だった甲府盆地を蹴破って耕作地として拓いたとの伝承が残っており、
蹴裂(けさく・けさき)神社も何社か現存します。
 
しかしながら、考古遺跡の分布を見ると
旧石器時代縄文時代前期までは盆地周辺の山岳地帯が主な地域だとしても
縄文中期には盆地地域にも釈迦堂遺跡群など大規模集落が出現しており、
弥生時代以降の集落遺跡や水田遺構も見られることから、
元明天皇の御代に拓いた云々との社伝を史実と考えるのは難しそうです。
 
同時にフォッサマグナへの興味関心の高まりもあって、
急に一泊できることになった昨日、あずさ号の切符を取りました。
残念ですが「白州塩沢温泉 フォッサマグナの湯」へは行きません。
宿泊施設がないため、翌日の移動を考えて駅前泊まりです。
1ヶ月ぶりの演奏修行なので、この間の収穫を試すべく真面目にやります。
 
私にとって甲州と言えば、ワインでもホウトウでもなく、
長野県と山梨県に跨る金峰山(きんぷさん/2,599m)
北の長野県側には秋山金峯山神社、梓山金峰山神社
南の山梨県甲府市と山梨市には金峰神社があるようです。
今日は先ず、旧石器時代縄文時代前期に人が居住していたと
考えられている甲府盆地北部の山腹鎮座の金峰神社へ行ってみます。
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路沿いに小さな社殿が見えて来ました。
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え⁉ まさか…ここ?
金峰山のお膝元、甲府金峰神社ですよ…。
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道路脇から入って下を見ると、古社らしい参道ではあります。
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現在の社殿はここだけでしたが、周辺にはいくつもの石祠が散見されました。
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社殿に向かって右奥へ進むと、石垣で何段かの台地を造成した跡があり、
かつては膨大な数の修験者を収容できる坊が並んでいたのではないかと妄想…。
現状は期待が大きかっただけにちょっと拍子抜けしました。
 
次は、いったん南麓まで下り、西へ走って、以前、昇仙峡~金櫻神社
行った際に通った昇仙峡グリーンラインを反対側から登ってゆきます。
神社というより船石という巨岩を見に。
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道端に突如出現した↑これが船石でしょうか?
ここは、もう甲斐市なんですね。
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道路を挟んで反対側に船形神社(諏訪大明神)
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境内に入ると、社殿よりも巨石の方が気になりました。
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門の横に鎮座する巨石は(或いは巨石の隣に門を建てた?)
まるで大地から生えてきた植物のよう?!
 
古代、船形の岩が上流域から運ばれてきたのを目の当たりにしたら、
古代人は神格化しようとしたでしょうか?
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門の手前で船石を見ながら古代人の気持ちを想像したく思いましたが、
道端の乞食のようなものなので雰囲気も何もあったものじゃありません。
運転手さんは親切に「写真を撮りましょう」と仰って下さいましたが、
こののちは遠慮しました。客観的に見て異常者でしかないため。
個人的には、土石流か何かで運ばれて来た巨岩を船形に削った? と感じました。
なんと言っても日本神話では、神は天の磐船に乗ってやってくるものなので。
 
次も同名の船形神社(諏訪大明神)
中央本線まで下って、塩崎駅の北西を目指します。
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実はこの鳥居を見に来ました。身長170cm以上の人は屈まないと通れません。
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1397年に建てられたなんてビックリですね!?
かつては重要な神社だったと想像されますが、今はこんな感じ。
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子供の遊び場としても活用されていないように見えました。
 
ここから塩川を渡って、塩川と釜無川に挟まれた細長い中洲
…と言うには高低差のある韮崎市に入ります。
南端の三角州(!?)から北上すると、武勝頼が戦国時代末期に築いた
新府城の手前に當麻戸神社があるはず。
途中、何もない所でナビに「目的地に着きました」と言われたので
神社を探そうと丘を登っていたら、隆起した屏風(!?)が見えました。
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その時、下の道で神社を探していた運転手さんが、大声で
「この道を進むと名前を読めない神社がありますよ~」と叫んで下さいました。
「次はどこですか?」と訊かれたとき「字が読めないんです」と申し上げたので…⁉
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當麻戸? トマトじゃおかしいし…。タイマト?
奈良県葛城市の當麻寺や當麻氏と関係あるのでしょうか?
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振り向くと、当社にも巨石が!?
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「とうまと」とルビが振られていますね。
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拝殿右には神楽殿もあって、よく調えられた神社でした。
実は当社は「下之社」とも呼ばれ、ここから更に北上すると、
「中之社」たる穂見神社があります。では「上之社」は?
何も調べずに来たため、わからないことだらけ?!
再訪を心に決めて、今日の目的地へ。
 
円井(つぶらゐ)逆断層
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しかし、「現在」の図の下↑に書かれているように
現在、逆断層は砂防石垣に隠れてしまって見えません!?
わざわざやってきたのに…。
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第四紀段丘砂礫層は木々に覆われていたため画像右端に写っているかどうか
ギリギリですが、中央付近に白っぽく見える岩肌が円井石英閃緑岩でしょう。
別の案内板の一部を抜粋しておきます。
 
断層面の下盤(東側)河岸段丘砂礫層(2~5万年前)の新しい地層の上に
上盤(西側)円井石英閃緑岩(1500万年前)の古い地層が乗上げたもので、
横圧力によってできた逆断層です。角度が低いので押し寄せ断層といいます。
西側の山地が隆起し東側に沈降したもので甲府盆地の成因の証拠であります。
 
なお、ここへの道は非常にわかりにくく、柴犬と散歩中の御夫婦に尋ねました。
「去年も自転車で来た方がスマホを見てもわからないと困ってましたよ」
とのことでしたので、迷ったのは私だけではありません。
韮崎市観光協会はもう少し他所者にやさしくして頂けませんか?
 
わざわざ円井へやってきた最大の理由は
地名から反正天皇の皇女(つぶら)比女を連想したためです。
能登半島に墳墓とされる柴垣古墳群親王塚古墳や円比咩神社があるのに
なぜ甲州円比女にまつわる伝承が?
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ちなみに、甲州宇波刀神社を3社見つけましたが、当社以外では
円比女の伝承を探し出せませんでした。
すると当社の718年創建というのは、朝廷の支配下に入ったことを暗示?
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妄想を逞しくしながら社殿を見ると、本殿は覆屋の中。
しかも細かいアミまで張り巡らされていて良く見えません。
ま、それが目当てではないので、さっさと退散…。
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奥に、古代祭祀場を思わせる円形台地がありました。
左奥にぶら下がっているのは何だったのでしょう?
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この土地独自の飾り物なのでしょうか。
 
当初は夕方から雨の予報ながら、午後はずっと湿度の高くない曇りでした。
それで富士山は曇って見えないだろうなと諦めていたのです。
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ところが、円野町下円井から南アルプス市有野へと12号線を南下する道々、
ずっと富士山が姿を見せてくれていました。
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あのこんもりが水宮神社のようです。富士山は南西に位置しています。
古代は山アテ法を駆使して旅をしていたんでしょうね。
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さて、水宮神社ですが、834年の大洪水の際、淳和天皇が勅使を派遣して
創建したと考えてよいのでしょうか?
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この立派な社殿の左にある祠が気になって仕方ありません。
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もし、水宮神社創建以前からここに祠があったとしたら、
ここから何を遥拝していたのでしょう?
運転手さんに訊くと櫛形山(2052m)ではないかとのことでしたが、
真西の大唐松山(2561m)の方が物部っぽいなぁ…と感じました。
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社紋も後付けかとは思われますが、菊水紋が気になりました。
いつ頃から使われていたのでしょうか?
 
こののち2社をまわって甲府駅へ戻る間、朝廷が夷狄を鎮圧するための軍隊を
組織し、各地方に細かく干渉した歴史を見て歩いていることを自覚しました。
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南アルプス市水宮神社から真東に走り、釜無川を渡って信玄橋東詰を
北上すると三社神社があります。また鳥居を見に来ました。
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水宮神社の大洪水は834年、こちら三社神社の水害は825年。
他の地域に比べ手厚いと感じるのは、甲州の金と水晶に私の目が眩んでるせい?!
 
最後に最も甲府駅に近い穴切大神社に立寄りました。
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宇波刀神社の本殿ばかりか、由緒書まで金網の中?!
元国宝の本殿です。
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たまたま神職さんが落ち葉を掃いておられたので
明日行く予定の蹴裂神社についてお尋ねしましたが、
当社との関係について無関心なご様子で、
湖と言っても泥濘地のようなものだったかも知れないが、
甲府盆地を豊かな耕作地にしたとの定型文のみ語られました。
さらに
「地図上で蹴裂神社を3社見つけたのですが、もっとあるでしょうか?」
と畳み掛けてみたものの、首を傾げておられました。
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ここに当社のメッセージが込められているのかしら?
(アミを蹴破れ?!)
 
ネット検索で得た「けさく・けさき」と「さく」が同じなので佐久神社も重要
との情報の信憑性について知ることはかないませんでした。
こののちもぼちぼち足で稼くしかありませんね。