もっと新しいところでは、戦国時代に簡単に山城を築くため(?!)
山頂に祀られた神社を山麓へおろした例などを見て歩いています。
神社とは先祖を共同体の精神的拠り所として祀ることから始まったと
想像していましたが、いつしか各氏族の陣取り合戦の道具と化して
白を黒に変えるオセロゲームみたいになっていった感があります。
列島各地で各氏族が伝承してきたうたたちも、「大宝律令」前後に
先住民の手をはなれ、朝廷の儀式の中に組み込まれてしまいました。
古墳時代、弾琴埴輪はそんなうたを演奏してたのかしら?
との疑問から足を踏み入れた古代歌謡の世界。
和琴の演奏法が弾琴埴輪の手と合致することはすぐわかりました。
…が、まだまだわからないことばかり。
一足飛びに社殿などなかった時代の音楽を解明できるとよいのですが、
まずはもつれにもつれた糸をほぐすことから始めないと。
演奏に際しては、祭神に応じたうたを選ぶトレーニングをしていますが、
神社で祭神や社名が変わるのは当たり前、神話もあてになりません。
神話をもとにテーマパークが新設されたケースも多いので。
昨日まだ行けていないと書いた阿彌神社ともう一つの楯縫神社です。
楯縫神社と阿彌神社にはそれぞれ同名の2社の論社があります。
こうした「式内社」論争は全国各地で見られますよね。
ビジネス的には単なる氏神様じゃダメなんでしょうか?
まずは町中にあった阿彌神社(旧信太郡阿見村)。
どうやら社殿の横に着いてしまったようです。正面にまわりましょう。
まるで公園のように整備されています。
区画整理され、参道の幅しかなくなった社地を石杭で画したようです。
次にバイクで10分ほどの阿彌神社(旧信太郡竹来村)。
隣にあるコレは古墳ではないのでしょうか? 柵で囲まれていて入れませんが。
周囲の鬱蒼とした鎮守の森は阿見町指定天然記念物「阿弥神社樹叢」、
右の石碑の文字は読みとれませんが、「縣社延喜式内二宮阿彌神社」?
信太一宮が楯縫神社(美浦村木原)、信太二宮が阿彌神社なのだそうです。
信太郡東西の総社として両社で「普都神話」を縁起とする古式祭を行っていたとか。
簡単にまとめると
「古老曰く。天地のはじめ、草木がまだよく物云ふてゐた時代、
普都大神と申す神が天より降つて来た。葦原中津之国を巡り歩き山や河の
荒ぶるものどもを帰順させ終へた時、天に帰らうとして、身につけてゐた
武具の鎧兜、戈、楯、美しい玉類など悉くこの地に脱ぎ棄て留め置いた」。
創建は推古天皇15年(607)で明治までは二宮明神と称されていたようです。
近世には熊野権現も参加して、三社で激しく式内阿彌神社を争い、
文政12年(1829)には寺社奉行の勅許を仰ぐに至ったそうです。
明治以降も収まらない阿彌神社論争の中で当社が信太二宮として有力視されるのは
鎮座地「竹来・高来(たかく)」が普都大神の登天(高往く)に由来するためだとか!?
信太二宮から一宮までは約20分と出たものの迷いに迷い、着いた時には真っ暗!!
シャッターがなかなかおりませんでしたが、肉眼で見るより明るく撮れました。
描きつつ鳥居に辿り着きましたが、最初は一本外の道を走っていたようです。
0.05の視力では真っ暗にしか見えない参道をどんどん進みます。
拝殿らしき建物の輪郭が見えたので撮ってみました。
広大な敷地です。古代は社殿などなく、現社殿前の大木で丸く囲まれた場所で
祭祀が行なわれたんだろうな…と想像し、月明かりもない中、演奏してみました。
むしろ誰にも見られずに済んでよかったか…と思えるほどの異様な行動!?
引き返す時にはもう太古の森みたいになっていました。
こわさは勿論ありますが、それでも、平安時代創建、江戸時代再建といった
神社では感じることができない空間のひろがりの中での演奏は楽しかった!!
美浦村木原(旧地名は「神越」)鎮座の一宮楯縫神社の創建は紀元18年、
祭神が普都主命(普津主神・普都主大神)ときけば、物部・石上の奉斎した
布都御魂との関連を探ってみたくなりますね。
「浅間塚古墳(木原原古墳群)」などの大規模古墳群があり、
古代から集落があったことが判明しています。
なお、当(木原)楯縫神社の宮司さんは信太の楯縫神社に関して
「信太の方が古いかもしれない」と仰っていたそうです。
縄文海進の海面上昇図を見ると、入江の岬に位置していたためでしょうか。