藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

渡り来しもの

古来、宮中の神殿に祀られている韓神(からかみ)と園神(そのかみ)
北が百済神たる韓神、南が新羅神たる園神だそうです。
韓神は百済神=三島神=大山積神、園神は新羅神=八幡神とされ、
宮中に祀られている以上、全国各地に鎮座する三島神社大山祇神社
八幡神社系統は朝廷直轄の神社といえそうです。
 
しかしながら、宮中に祀られた神の名は、なぜか
梁塵秘抄』所収の以下の二首(248&249)には出てきません。
(↓『梁塵秘抄』写本より248と249を引用)
 
せきよりひむかしのいくさかみ かしまかんとりすはのみや
またひらの明神 あはのす たいのくちや小□□□
あつたにやつるき いせにはたとのみや
 
逢坂の関より東で軍神を祀る神社といえば、鹿島神宮香取神宮諏訪大社
また比良の白髭(しらひげ)神社、安房の州宮(すのみや)神社、滝の口の小鷹神社、
熱田(あつた)には八剣宮(はっけんぐう)、伊勢には多度大社となりましょうか。
ただし「ひの明神」は「ひの明神」すなわち日吉大社説が有力です。
 
せきよりにしなるいくさかみ 一品ちうさん あきなるいつくしま
ひちうなるた
(の誤記?)ひつみや はりまにひろみね さ(の誤記?)う三所
あはちのいはやにはすみよしにしのみや
 
逢坂の関より西で軍神を祀る神社は一ノ宮(美作国)中山神社、安芸の厳島神社
備中の吉備津神社、播磨の広峯神社、射楯兵主(いたてひょうず)神社、
淡路の石屋(いわや)神社に相対しては住吉大社西宮神社。と訳されますが、
「にしのみや」は広田神社(世俗西宮ト号ス)が有力で、広田社の南宮が西宮神社です。
 
梁塵秘抄』は後白河法皇編纂なので、上記を朝廷の見解とすると、
二首の歌に列挙された軍神が天皇にまつろわぬ民を征伐したのでしょう。
 
これらの神が活躍し始めたのは7世紀以降と思われ、
東国平定を決定的にしたのは坂上田村麻呂(758-811)とされています。
 
そのころ登場したのが鳥居で、『神道大辞典』(昭和12年初版)
奈良時代から神社建築の門の一種としている」とあり、
8世紀頃に現在の形が確立したとされています。
 
神社本庁の公式ページには↓こうあります。

鳥居の起源については、天照大御神が天の岩屋にお隠れになった際に
八百万の神々が鶏を鳴せましたが、このとき鶏が止まった木を
鳥居の起源であるとする説や、外国からの渡来説などがあります。
鳥居は、その材質・構造も多種多様で、それぞれの神社により形態が異なります。
一説には六十数種類の形態があるとも(中略)
起源や形態などさまざまではありますが、鳥居を見ると神聖さを感じるのは
我々日本人の共通した考え方ではないかと思います。
 
ならば、私は日本人ではないのでしょう。
鳥居を見ると、底知れぬ不気味さを感じるので。
 
同時期にもたらされたのが狛犬で、
通説によれば、古代の中東地域やインドで神域を守護するとされた"獅子"が
中国に伝わって皇帝の守護獣となったのを見た遣唐使が持ち帰ったのだとか。
その結果、平安京の清涼殿に二対の"獅子像"が安置されました。
 
ただし中国のいわゆる"唐獅子"が左右同形を基本とするのに対し、
日本の狛犬は口を開けた阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)
一対とすることが多いようです。
 
阿吽(あうん)とは、梵字(12字母)の初めの阿(a)と終わりの吽(hum)で、
最初の阿は口を開いて発音し、最後の吽は口を閉じて発音します。
密教では阿を万物の原因、吽を万物の結果として
万物の初めと終わりを象徴するものととらえていました。
わが国には奈良時代から神仏習合の思想があったことから
平安時代狛犬も仏教の影響を受けたのでしょう。
 
倭琴の旅を始めてからずっと鳥居狛犬社殿など人工的建造物への
苦手意識が拭えなかったのは、日本古来の祖神信仰とは無関係の、
後付けされた形状に対する違和感からだとわかりました。
 
ヤマト王権が『記紀』に独自の日本神話を発表して以降、日本の神社は
その神話に基づく神々を祀るための神社を創建していった…というより
旧来の神社の祭神や社名を変えていったのだろうとも想像しています。
倭琴の旅を始めた当初、
対馬鳥居が3つ4つと列んでいる神社を幾つも見、
その鳥居の扁額に書かれた社名が全て異なっている事実に驚愕しました。
これこそがヤマト王権に平らげられた地域の産土神
官製の神に挿げ替えられた一例だったのかもしれません。
 
二段階ほど説明を端折りますが、ここに、宮中で祀っている神の名が
梁塵秘抄』の二首(248&249)に登場しない訳があるのでは? と疑っています。
鹿島神宮にせよ住吉大社にせよ
大元は海人族の祭祀で、軍神とは程遠い存在だったはずなので。