藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原

2016年2月10日、奈良文化財研究所が
鳥取博物館所蔵の弥生時代の銅剣に線刻画があったと発表。
鋳造後の青銅器から線刻画が見つかったのは初めてで、
図柄はこれまで鳥取県を中心に木製品などから見つかったサメでした。
銅剣は儀式用と考えられていることから、海人族独自の祭祀の存在を
裏づける貴重な資料となりそうです。
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この銅剣は、分析の結果、弥生中期中頃(紀元前2世紀)の作と判明。
線刻は100年余り後の弥生中期後半(紀元前1〜紀元1世紀)
青銅より硬い鉄で彫ったのではないかと推測されています。
 
古代はサメ類などをワニと呼んでいたらしく、 鳥取県では
因幡の白兎の話に出てくるワニとの符合が話題になったようです。
 
ただ、私の関心はどうしても古代豪族ワニ氏に向いてしまいます。
200基余から成る東大寺山古墳群を築いたことで知られるワニ氏は
一説に山陰から大和に進出して活躍したと言われてきましたが、
銅剣にあったサメの線刻画が裏づけの一つになるやもしれません。
「ワニ=サメ」説の裏づけとしてよく引用されるのは
日本書紀』神代下 第十段に出てくる一書(あるふみ)です。
鰐には背鰭があったと明記されています。
 
一書曰、兄火酢芹命、得山幸利。弟火折尊、得海幸利、云々。
弟愁吟在海濱、時遇鹽筒老翁、老翁問曰「何故愁若此乎」火折尊對曰、云々。
老翁曰「勿復憂、吾將計之」計曰「海神所乘駿馬者、八尋鰐也。
是竪其鰭背而在橘之小戸、吾當與彼者共策」乃將火折尊、共往而見之。
 
ある書によれば、兄のホスセリノミコトは山の幸を得、
弟のホヲリノミコトは海の幸を得た、云々。
弟が悩んで海辺に居た時、シホツチノヲヂに遇ふと、
ヲヂが「なぜ愁ひてゐるのですか」 と問ふた。
ホヲリノミコト答へて曰く、云々。
ヲヂ曰く「もう悩まずともよい。私が何とかしませう」
そして「海神(ワダツミ)が乗る駿馬は、八尋鰐で、鰭背(背びれ)を立てて
橘之小戸(タチバナノヲド)にゐるので、彼に相談してみませう」 と
ホヲリノミコトと共に会ひに行つた。
 
(海幸山幸の名は『古事記』と『日本書紀』で異なりますが、
この第十段 一書もまた『記紀』とは違うため厄介ですね…)
 
橘之小戸と言えば、有名な中臣祓(大祓詞)を思い出しますが、
それ以前から『古事記』にも『日本書紀』にも出ていました。
イザナギが禊ぎをした「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」(『古事記』)です。
日本書紀』第五段第六の一書には「筑紫の日向の小戸の檍原」とあります。
この一書にはまた、ヨモツヒラサカを三次元的な地理・地名としてとらえず、
死に臨む人が息絶える際という時間的観念と考えた方がいいともありました。
古事記』が「今 出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)と謂ふ」と
具体的な地名をあげたのと対照的です。
「筑紫=竺紫」も、『日本書紀』は九州全体を「筑紫洲(しま)」としており、
後世のいわゆる「筑紫国」とは違います。
 
ところが、記紀以降、神話に登場した名称を地名や社名とする動きが出て、
ややこしいことに複数の「をどのあはぎはら」や「をど神社」があります。
 
宮崎市小戸神社は「第12代景行天皇の勅により創建」と伝わります。
が、何度も遷座しているのに「古くより大淀川河口の沖合小戸の瀬
小戸神社御鎮座の清浄地として祀られ」と言われましても…。
また「古くは今の大塚地区と下北方地区との間の三角州、すなわち
宮崎市街地全域を小戸と称し」ともありました。
古くは「小戸大明神」、明治維新後「小戸神社」と改称されています。
 
福岡市西区には小戸大神宮がありますが、「筑紫の日向の橘の小戸」は
小戸大神宮の北 志賀島志賀海神社元宮付近にあるとの情報を得たので
2012年7月に足を運んでみました。が、満ち潮で沖津宮へ渡れず、
大潮の日を調べて翌13年4月27日に再訪しました。
干潮の時刻に「小門の阿波岐原」の比定地まで歩いたのです。
 
当地は申すまでもなく、古来、安曇(阿曇)族の本拠地です。
志賀海神社は代々阿曇氏が祭祀を司り、2009年11月に前
阿曇磯和宮司が急逝するまで宮司をつとめてこられたそうです。
2012年からは阿曇磯和宮司の妹 平澤憲子さんが権禰宜として
奉職しておられ、2013年に偶然お目にかからせて頂きました。
 
志賀の海人の《磯等(いそら)》の歌は宮中の御神楽にも採られています。
もちろん対馬も安曇族の本拠地で、安曇の磯等の伝承があります。
 
また、対馬は日本の蕎麦発祥の地で、安曇族が安曇野の名とともに
蕎麦を信州へ運んだと言われています。
北部九州を拠点とした安曇族は新天地を求めて行きついた地に
祖神を祀り、歌や神話を伝えていったのでしょう。
これが列島各地に「小門の阿波岐原」がある理由かもしれません。
 
安曇族の神話によれば、安曇の磯等=ウガヤフキアヘズノミコト。
そして日本神話では、ウガヤフキアヘズの母は豊玉姫で、
母の妹たる玉依姫と結婚したウガヤフキアヘズの子が神武天皇です。
よって日本神話では神武天皇は海人族の血を引いていることになります。
この設定でないと国が治まらないほど海人族の力が大きかったのでしょう。
 
ただし、9世紀頃、海人族にとっての大打撃(?!)があったようです。
貞観元年(859)大嘗祭で《磯等前(いそらがさき)》=《磯等》を演奏したら
翌日、変事が起こったと歌詞の端書に明記されていました。
 
磯等前
或説ニ云ハク、此ノ歌ハ貞観ノ神宴之時ニ撰定ノ歌ナリ。
次之日忌諱有ルニ依リテ停止サルト云々。其ノ説詳カナラズ
 
〈本(もと)歌〉
 磯等が崎に 鯛釣る海人も 鯛釣る
〈末(すゑ)歌〉
我妹子(わぎもこ)が為と 鯛釣る海人も 鯛釣る
 
現行の歌詞のいかに短いことか!?
それに上の歌詞で何らかの変事が起きるとは考えられないのですが。
平安初期の宮廷における変事の責任を問われて
海人族の霊の籠った歌詞(言霊)を削ぎ落された可能性はないのでしょうか?
 
阿曇氏は律令制宮内省に属する内膳司(天皇の食事を司る)の長官に
任命される以前から、高橋氏と並んで内膳奉膳をつとめていましたが、
高橋氏と衝突し、桓武天皇の御代(781-806)に奉膳職を断絶させられました。
この宮中における阿曇氏の失脚と大嘗祭における変事に関連があるのかどうか
考えようとしても、現行の歌詞だけでは何もわかりません。
もっと古い歌詞が出てくるのを待つのみです。
 
では、日本神話に戻ります。
日本書紀』に、豊玉姫八尋鰐に姿を変えて出産したとあり、
八尋鰐は『日本書紀』の一書に橘之小戸に居ると書かれていました。
 
すると、豊玉姫は安曇族ではなくワニ族なのでしょうか?
それとも安曇族=ワニ族なんですか?
神武天皇もワニ族ということになりますか?
 
ここからは私の妄想ですが、日本列島にはワニ族が渡来する前に
龍蛇族が居たのではないかと…?
たとえばスサノヲノミコトが退治したとされるヤマタノオロチ
三輪山の蛇信仰などが先住民の存在を物語っているような気が?
 
私が以前から追っている長氏も龍蛇族ではないかと想像しています。
蛇の古語にカカ、ハハ、ナガ・ナギ等があるからです。
ナガ・ナギはインド神話における蛇神ナーガ・ナーギから
来ているとの説もありますが、まだまだ調査が必要です。
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今はまだイメージや言葉の響きだけで、イカガシコヲ、アラハバキ
オキナガ氏などを追っています。
日本神話によれば、
オキナガ氏から出た神功皇后三韓征伐に出兵する際
安曇(阿曇)磯良(磯等)に水先案内などを任せたとされているため
(磯等=ウガヤフキアヘズなら時代がメチャクチャですが、しょせん神話ですから)
安曇族をワニ族だけでなく龍蛇族とも結び付けようとしているのかも?
 
ちなみに、記紀における「ワニ」の記述に関しては、
丸山林平氏が『国語教材説話文学の新研究』(1936)において
「ワニ=サメ」説を否定して、南方のトーテムとしての鰐であるとし、
本居宣長氏や折口信夫氏なども「ワニ=鰐」説をとっています。
珍しいところでは、津田左右吉氏のナーガ(水蛟・龍神)信仰からくる
「ワニ=ウミヘビ」説もありました。
 
「ワニ=サメ」説が支持されるのは、
現代でも山陰地方の方言でサメのことをワニと言うからでしょう。
山陰地方だけでなく、中国地方の山間部でも
サメやエイ等の魚料理を「ワニ料理」と呼ぶそうです。
こうしてみると、
サメのヒレを鱶鰭(フカヒレ)と呼ぶのも紛らわしいですよね?
また、サカタザメなどは、サメとエイの中間のような外見をもち、
サメの和名を有しているのに、鰓孔が腹面にあることから
ガンギエイサカタザメ科のエイとされています。
 
さて、幕末の『南島雑話』には
奄美大島の住用湾内で捕獲された「蛇龍」のイラストが!?
むむむ…背鰭があるようにも見える「蛇龍」ですが、
地元では「駝竜(イリエワニ)」とされているそうです。
 
いったい、背びれを立てて橘之小戸に居る八尋鰐とは誰なんでしょう?