何十年か前、某放送局が、1930年初頭に新聞紙上を賑わせた
古関裕而(1909-1989)「チェスター社主催作品公募入選二等」という
記事をもとに番組を作ろうと企画したそうです。
ところが、イギリスへ取材に行くと、チェスター社はすでに無く、
図書館にもヒントになりそうな資料はなかったとのこと。
私が古関裕而の楽譜研究に着手した1992年より前の話です。
資料が見つかったら知らせてくれるよう全英図書館に依頼したものの
連絡はなかったそうで、現在に至るまで番組は作られていません。
後日談を待っていた私も、「チェスター社主催作品公募入選二等」の
報道に関する材料をもたず、そのまま楽譜研究を終えました。
ただ、二等云々はさておき、古関の《竹取物語》(1929)が日本人が作曲した
オーケストラ作品として初めて国際的に認められたのは確かでしょう。
審査員のストラヴィンスキーからフランス語の手紙が届いたのですから。
イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882-1971)は初期の
作曲したのも彼の《火の鳥》に触発されたためでした。
『ビクター』1930年7月号に掲載された古関裕而の〈作曲者自伝〉に
聞いて、それからヒントを得、我国に存在する古代物語中最古の、
我国の雅楽に似せて作り平安朝時代の美しさを出した」とあります。
日本の雅楽の手法をオーケストラで模すという古関の独創は、
出品され、フランスで誕生したジャポニスムの熱狂が続く中、
作曲家までもが日本の音楽に興味を示した経緯を考えると、
ヨーロッパの作曲界で注目されたに違いありません。
ただし世の中には「チェスター社主催作品公募入選二等」の真偽を
作品評価の基準とする方も居られることでしょう。
そういう方は、ロシア生まれのアレクサンドル・チェレプニン(1899-1977)という
作曲家が主催した管絃楽作曲コンクールで伊福部昭(1914-2006)作曲の
《日本狂詩曲》(1935)が第一席に輝いたことも評価されないかもしれません。
1935年の「チェレプニン賞」は、パリで審査されたとはいえ
日本人のオーケストラ作品を対象としていたからです。
伊福部氏は審査員にラヴェルの名があったため応募したそうですが、
ラヴェルは病気のため審査には参加できませんでした。
チェレプニンを筆頭に、アレクサンデル・タンスマン、
アルベール・ルーセル、アンリ・ジル=マルシェックス、
アンリ・プリュニエール、ピエール=オクターヴ・フェルー、
ハルシャーニ・ティボール、ジャック・イベールによる審査の結果、
21歳の伊福部昭が独学で作曲した《日本狂詩曲》が選ばれたのです。
またしても二十歳そこそこの青年が独学でオーケストラ曲を書いた?
古関裕而より5歳下の青年が6年違いで世に出した"爆弾"です。
どうしちゃったの、東京音楽学校!?
国際舞台で認められた作曲家はまだ出ていないじゃありませんか。
それでいて瀧廉太郎が偉い? 山田耕筰が大家?
どこの国のどなたに、どの作品が評価されたというのでしょう?
そして戦後、
------
いろいろ書きたいことはありますが、2つの"爆弾"に話を戻しましょう。
●伊福部昭作曲《日本狂詩曲》(1935)は1936年にファビエン・セヴィツキー指揮
ボストンピープルズ交響楽団によりボストンで初演。各紙で絶賛された。
私が初めてお宅へ伺った当時、伊福部先生は《日本狂詩曲》が戦時下の
舞台初演されていたことを御存知なかったようです。
(或いは楽器編成を縮小して演奏されたため、日本初演と認めておられなかった?)
演奏を日本初演と考えておられたのか、大学院時代すでに
声楽を続けるかどうか迷っていた私に、こう仰いました。
「《日本狂詩曲》は私が音楽学校を出ていないため日本の楽壇で無視され続け、
日本初演まで36年を要しました。あなたも最低36年は我慢しなさい」
「はい!」
奇しくも引退を決めた60歳は、24歳+36年で、お言葉通りになりました。
そして伊福部先生も谷川雁さんもお見通しだった古代歌謡の道に入ったのです。
今日このことに気づきました。しかし、1944年なら我慢は9年で済んだ…?!
古関作品の場合は、著作権継承者たる正裕氏をはじめとする御家族の
皆様のご厚意で、私信や自筆譜・出版譜などをコピーさせて頂きました。
オーケストラ伴奏譜しかない曲は自分でピアノ譜を書いて演奏するほかなく
スコアをコピーさせて頂けたお蔭でずいぶん作業が捗りました。
古関裕而の自筆譜は読みづらく、歌詞やメロディーも清書が不可欠でした。
朝ドラ『エール』の中で、《紺碧の空》が《紺壁の空》になっているとの
セリフがありましたが、その譜面のコピーも持っています。
古関裕而に限らず、ミスのない自筆譜なんて滅多にありません。
とくに日本語の場合は敗戦後に現代かなづかいへ移行したこともあり、
歴史的仮名遣いと現代かなづかいの混同が非常に多く見られます。
漢字や平仮名・カタカナから音符に至るまで間違いだらけなんです。
また録音現場で歌詞やメロディーが変更されることのある流行歌では、
楽譜が訂正されずに残って、音盤と異なるケースも少なくありません。
でも、作曲者は変えたくなかったかも? と思って自筆譜通りに歌ったりも
しました(《大阪タイガースの歌》で"お、お、おおーおおさかタイガース~"と韻を踏んだ古関は
"お、お、おおーはんしんタイガース~"になっては困ると主張したのに却下されたんですよね…)。
作曲者の自筆を信じ、誤記のまま歌って赤っ恥をかいたこともあります。
山田耕筰の自筆譜もそうでした。
本人が訂正したものを、さらに本人が改変したり元に戻したりして…
結局どの版で演奏すればいいの?! と混乱するばかり。
私が近現代の日本の歌から遠ざかったのは楽譜と徹底的に向き合った結果です。
作曲家が書いた楽譜にミスが無い方が珍しいのに、誤植の責任を演奏家が
負わされてはかないません。誤植ではなく、曲が稚拙な場合もありますし。
作曲家から直接演奏を依頼されると、話し合えるだけに衝突することも多く…。
たとえば「ふかい」という歌詞の場合、「深い」のF(H)には母音がありません。ただ、
「付会させる」とか「不(愉)快な」の「ふ」は、Fu(Hu)と母音を入れても聞き取れます。
私は「深い」の「ふ」に2分音符が当てられているのを見て、「ふ~かい」と歌っては
聴衆の皆様に「深い」と聞き取って頂けませんので…と演奏をお断りしました。
先方は激怒しましたが、歌詞が聞き取れない責任を負わされるよりはマシです。
そういえば山田耕筰なども、日本語は語頭と第2音節をくっつけて発音しないと
聞き取りづらくなると主張しながら、「雲だ」を「く~もだ」と作曲してましたしね。
そんな理屈以前に、「雲」の「く」は無声音ですが…?
「桜」は「さく~ら」ではないため「sakra」と表記すべきとのかつての主張は何処へ?
その点、音楽畑にとどまらず広くて深い教養を身につけておられた
伊福部昭先生の場合は、いかなる質問にも瞬時にお答え下さいました。
大伴家持の和歌への作曲で「鳴く」の高低アクセントがおかしいと申し上げたら
「『万葉集』の時代のアクセントと標準語のアクセントは同じですか?」
と一蹴されるなど、まさに一から、四半世紀にわたり御指導くださったのです。
第2作『ゴジラの逆襲』(1955)-----音楽:佐藤勝
:
:
『モスラ対ゴジラ』にもザ・ピーナッツ扮する"小美人"が再登場することに。
それで《聖なる泉》を詞曲とも書かれることになった伊福部先生は
《モスラの歌》の音域が狭いことが不思議でならず、
ザ・ピーナッツのお二人に声を出してもらったら、声域が
1オクターヴ(8度)なかったので驚いたと仰っていました。
ただ、曲の良し悪しと声域は関係ないため、作品も演奏も素晴らしい!!
誤解を恐れず声域を階名で書くなら
《モスラの歌》の主旋律はレ~ド、
《聖なる泉》の主旋律もレ~ド(合の手のlu lu lu…のみ上のレ)で
いずれも7度ギリギリまで存分に使っています。
(ちなみに朝ドラ『エール』の木枯さんが書いた“古賀メロ”の音域は12度,13度が普通です)
本来こうしたオリジナルがある作品を演奏してイメージを損ねたくは
ないのですけれど、作曲家ごとの作品研究では避けて通れません。
歌手の個性で聴かせる歌ではなく、逆に歌手の個性を消して
楽譜を忠実に再現することで作曲家の個性を探るためです。
しかしながら、やはり、楽譜通りに演奏すると
ザ・ピーナッツの演奏とは発音や符割りが異なる箇所が出てきます。
とはいえ、古関作品の場合はともかく、伊福部作品の場合は
作曲者に何度も発音を聞いて頂き、確認作業をしています。
とくに「ハ リ カ ト マ ル ポ」と歌われている箇所の譜面は
音符上に1音ずつ「Ha li Ka, at ma ru po」と書かれています。
よって「ハ リ カ アト マ ル ポ」と歌ったわけですが、
きっと歌い方が違うと批判されてるんでしょうね…。
(私、"ものまね芸人"じゃないんですけど…)
再現芸術家として楽譜を忠実に再現すればするほど批判され、叩かれた36年?
楽譜はあっても縛られることの少ない古代歌謡の世界に入ったら
伴奏も自分でやるので本当に自由に演奏できるようになりました。
作曲家の指示通りに歌っているのに批判される世界へはもう戻れませんね。