日本人に最も親しまれたテレビドラマの一つに『水戸黄門』があります。
1969~2011年の42年間に1,227回も放送された長寿番組(平均視聴率22.2%)で、
主題歌《ああ人生に涙あり》を作曲した木下忠司(ちゅうじ/1916-2018)氏は
戦後、兄の映画につける音楽を任されて作曲家としてのキャリアを積んだ
忠司先生は、惠介監督の代表作『二十四の瞳』(1954)や
『喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)』(1957)の映画音楽で評価されました。
1954年の「第28回キネマ旬報ベスト・テン」を見ると、
テレビでは、
1964~67年放送の『木下恵介劇場』(1966『記念樹』他)、
1967~74年放送の『木下恵介アワー』(1968『おやじ太鼓』他)、
1970~77年放送の『木下恵介・人間の歌シリーズ』(1971『冬の華』他)の音楽を担当。
「フィルムが編集されてから音楽を入れるまでの時間が短く、詩の完成を
待っていられないから自分で作詞作曲することが多かった」そうです。
私は 2, 3歳の頃から木下忠司先生の音楽を聴いていました。
父が木下惠介監督作品の大ファンで、幼い頃から、よく映画館へ
連れて行ってくれたので (もちろん初代『ゴジラ』も映画館で観ました!!)。
そうした映画鑑賞が私の音楽的原体験であり、木下惠介監督作品の
ほとんどは忠司先生が映画音楽を書いていると父から聞かされました。
1996年初夏、忠司先生に、幼少から親しんできた主題歌を歌うコンサートと
CD制作のために楽譜を拝借したいと話したら「楽譜は無いよ」と言われ、
私がピアノ伴奏譜を書くことになりました。お借りしたオリジナル音源を
聴いて作成したピアノ伴奏譜を作曲者ご本人が訂正加筆して下さったのです。
その過程で、さまざまなお話を伺えました。
1941年に中国大陸へ向けて出征した木下忠司氏は、戦争末期に内地の
呼子が舞台の映画『海の花火』(1951年10月25日公開)を製作しています。
呼子での任務は船舶輸送で、主に瀬戸内海を運航していた忠司先生は
ほかの部隊から「部隊歌」を頼まれると、その都度、特別に一人で
オルガンがある島に1週間ほど滞在させて貰って作曲したそうです。
原作とする映画『二十四の瞳』(1954年9月15日公開)を製作されました。
忠司先生が携わった船舶輸送のイメージは、1956年に雑誌掲載された
脚本を書いて『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年10月1日公開)を製作し、
瀬戸内海を舞台にした映画としては他に、やはり惠介監督が脚本を手掛けた
以上の映画は惠介監督が忠司先生が語った戦争体験から着想されたものでした。
惠介監督はまた、忠司先生が瀬戸内海の島の分校で弾いたという足踏みオルガンを
忠司先生に訊いたそうです。忠司先生は監督の注文通りに音楽を入れたものの
ご自身が担当した他の作品同様、完成した映画は観ていなかったそうです。
それが、百歳のお誕生日を目前に控えた2016年4月の1週目に
「やっぱり僕の誕生日には来られないんだよね?」と電話を下さり、
「このあいだ初めて『二十四の瞳』を観たんだけど、惠介は天才だねぇ」と
仰ったのです。ちょっと…言葉が出ないほど感動しました。
木下家は兄妹仲が良く、深い信頼のもとに質の高い仕事を残されましたので。
忠司先生はその理由を「両親が信心深く、徳が高かったお蔭」と仰せでした。
妹の楠田芳子さん(脚本家)と御主人の楠田浩之氏(カメラマン)も「木下組」でした。
国産初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』(1951年3月21日公開)は
浅間山麓でロケ撮影されました。そのタイトルバックに流れるのが
《そばの花咲く》で、本編では主人公のカルメンが故郷の村に帰省した折、
戦争で失明した元教師が小学校の運動会でオルガンを弾きながら自作自演します。
『二十四の瞳』の主人公は結婚して教員を辞すも、夫の戦死によって復職しました。
『なつかしき笛や太鼓』では、孤児となった戦友の遺児が住む離島へ
教員として赴任した主人公の、小手島での13年が描かれました。
上記の木下惠介監督作品に通底するのは"戦争"です。
「木下恵介劇場」で放送された『記念樹』(1966年4月5日~1967年2月14日)では、
九州旅行で乗ったタクシーの運転手が養護施設出身だと話すのを聞いた
惠介監督が、児童養護施設を舞台に子どもたちの青春を描いています。
園児らは保母が結婚退職する際、施設内に桜の木(記念樹)を植えました。
その15年後、交通事故で夫を喪った保母が養護施設に復職します。
惠介監督と忠司先生が大切にされていたのは弱者に寄り添う物語でした。
そんな温もりに惹かれた私は、忠司先生が足踏みオルガンを弾いたという
瀬戸内海で、《そばの花咲く》と《記念樹》を弾き歌いしたくて、
最初、日本製の古い足踏みオルガンを入手しました。そしてCDに収録。
(CDは仙台で収録し、忠司先生は2日間ずっとモニタールームでなくホールの座席で聴いて下さいました)
レコーディング後に、オクターヴハーモニカのように単音を弾くと
1オクターブ離れた音が同時に鳴るアメリカ製のクラウンオルガンを
見つけて購入し、修理のため香川県へ運びました。
かつてシカゴにあった P. BENT社のクラウンオルガン(1903年製)です。

修理後、↑ 知り合いの事務所に預けて「うたの寺子屋」をやらせて
頂いたりしていましたが、新型コロナウイルスの感染拡大で
帰省が難しくなって、120年前に製作されたオルガンを密室で
死蔵させることだけは避けたく思い、悩みに悩みました。
瀬戸内海を舞台とした木下惠介監督作品が大好きで、
木下忠司先生が作曲された歌を演奏したくて購入した楽器ゆえ
関東ではなく、瀬戸内海に置きたい!
そんな気持ちから三原市へ寄贈させて頂くことを決めました。

(三原市芸術文化センター ポポロ 2F)
急遽、ピアノ運送業者に楽器を委託するためにだけ帰省したのが
2020年12月16日。それから4年余り、私は一度も帰れていませんので
オルガンを三原市へ寄贈させて頂いたことは楽器にとって幸運でした。
ただ、ほとんど演奏していないオルガンゆえ、
一度は木下忠司作品を演奏してみたいと思い立ちました。
幾度も御自宅や別荘・旅にお誘い下さったり、私の仙台時代に奥様と
ご一緒にわざわざ仙台まで遊びに来て下さったりしました。忠司先生はよく
「あなたが評価している伊福部さんはオーケストレーションが素晴らしいねぇ。
僕は声楽出身だからメロディーなら幾らでも書けるんだけど…」と仰せでした。
木下忠司先生ご夫妻との思い出は書き切れないほどありますが、
そんな思い出を度外視しても、忠司先生の作品は人生の応援歌として
心に響きます。木下忠司作品を演奏したくて入手したオルガンですから、
人生の最後に、正式な手続きを踏んで使用許可を頂き、ポポロに使用料を
お支払いした上で、ホワイエで演奏を収録しようと思い至りました。
こののちも末永く瀬戸内の地にオルガンが響くことを願って已みません。