藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

祖母山と阿蘇山

祖母山(そぼさん)は大分・熊本・宮崎の県境に位置する標高1,757mの山です。
祖母連山の主峰で、九州本土第三位、宮崎県の最高峰でもあります。
その西にある阿蘇山は、大型カルデラと高さほぼ900m以上の雄大な外輪山を持ち、
カルデラ内部の高岳・中岳・根子岳烏帽子岳杵島岳阿蘇五岳と呼びます。
最高点は高岳の標高1,592mです。
九州の屋根と言えば、少し北の、1,700m級の山が連なる「くじゅう連山」ですが、
祖母山阿蘇山は、その形容と信仰で圧倒的な存在感を放っています。
そこで今回は祖母山阿蘇山の祭祀に関わる場所を廻ることにしました。
 
一社目は豊後清川駅から数分の宇田姫神
道路脇に突然出現したので驚きました。
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地図に「宇田姫神 湧水」とありましたが?
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ほほう「清水の湧出する穴そのものがご神体」ですか…、探してみましょう。
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左手奥に岩盤が見えますね。
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たしかに穴から清水が湧き出ています。
そして、その上にも柵で囲まれた穴が見えます。
柵があるため近づけませんが。
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当社の御神体たる洞穴は、穴森神社の岩窟と相通じていると伝わり、
そこの大蛇と神婚した華御本姫(はなのおもとひめ)を祀るのが当社です。
しかし、何ゆえ階段の上の狭い台地に社殿を建てたのでしょう?
階段をあがったら、すぐ社殿なので座る場所もありません。
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取り敢えず、ここから50分ほどの穴森神社の岩窟を目指すとします。
 
途中、緒方町知田を通りました。『日本書紀』景行紀の「血田」の候補地です。
仍與群臣議之曰「今多動兵衆、以討土蜘蛛。若其畏我兵勢、將隱山野、必爲後愁。」
則採海石榴樹、作椎爲兵。因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上、
悉殺其黨、血流至踝。故、時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、亦血流之處曰血田也。
天皇が群臣に諮って曰く、「今、兵を多く動かして、土蜘蛛を討とうと思う。
もし土蜘蛛が我らの兵の勢いを恐れ山野に隠れたら、必ず後に愁うことだろう」。
すぐに海石榴樹(ツバキノキ)で兵のために椎(ツチ=槌)を作り、勇猛な卒に椎を授け、
草をはらい山を穿って、稲葉の川上で石室(イハムロ)の土蜘蛛を襲って破り、
一党を悉く殺したら、流れた血がくるぶしにまで達した。
それゆえ人は海石榴(ツバキ)で椎を作った所を海石榴市(ツバキチ)、
また血の流れた処を血田(チタ)と言った。
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ただ、ここは菅生台地の禰疑野(ネギノ)とは18kmも離れているので違うでしょうね。
 
さらに西へ進むと「原尻の滝」なるものがありました。
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緒方川にかかる滝見橋の中ほどまで行って撮りました。
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ちょっと造りっぽい印象を受けますが…、実は9万年前の阿蘇山の大噴火による
火砕流が冷えて固まった岩盤に柱状節理と呼ばれるヒビがたくさん入っていて
縦に割れやすいため、このような滝(幅120m/落差20m)ができたのだそうです。
 
ここからは南西方向へ45分ほどひた走ります。しかし着いた場所は?!
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運転手さんが「ここは穴森神社の元宮です」と訳の分からないことを仰います。
それは違いますと言いたいところグッと我慢していますと、
「すぐそこに穴森神社があります」とタクシーを廻して下さいました。が?!
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「あの…、あそこに健男霜凝日子神社 穴森神社 神幸所って書いてありますよね?」
「え? 穴森神社じゃないんですか?」
祖母山の祭祀は山頂の健男霜凝日子神社(上宮)、さきほどの健男霜凝日子神社(下宮)
と当社、そして穴森神社の四社がセットになっているようです。
いずれも延長5年(927)編纂の『延喜式』に豊後国の式内小社として記載された
健男霜凝日子神社の論社です。
ただし健男霜凝日子神社(下宮)は240段も石段を登らないといけないので
時短のため今回はカットしてました。そこへわざわざ立ち寄り…
そこから地図を見ながら穴森神社を目指したら一ノ鳥居で下ろされました!?
「ここからだとかなり登らなきゃならないと思うんですけど…」
「いえ、ここからすぐらしいですよ」←実は来たことが無いのにキッパリ!?
 
やむなくタクシーを下りて楽器ケースを背負ったとき、助け船が。
穴森神社へ歩いて行くのかえ?」「はい」
「それは無理だねぇ。坂が急だし。タクシーなら道を知ってるはずだけど」
と、一ノ鳥居の左手の農家の御夫婦が運転手さんに説明して下さいました。
天佑神助とはまさにこのことか。
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あっと言う間に二ノ鳥居です。徒歩での往復1時間を稼げました。
目線を右に90度振ると、一番奥が祖母山山頂だと仰います。
本当かどうかはわかりません。ともかく思い込みの激しい運転手さんだったので。
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このあたりは、杉・杉・杉のオンパレードです。
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三ノ鳥居まであるんですね。でも社殿は…
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これだけ? しかもガラス張り!? じゃあ本殿は? と裏へ廻ると
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これが最初の宇田姫神の洞穴と繋がっているとされてきた洞窟ですか…。
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しかし、あそこまで下りてゆく気はしません。
第一、コンクリートの道が狭くて、楽器を置く幅がありません。
地面は苔むしてるし、さっきの社殿で演奏修行させて貰うほかなさそうです。
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えええ~~~?!
このガラス、拡大鏡だったんですか…?
社殿前に座ると(社殿の中へは入ってません!!)、かなり距離のある
洞窟内の祠があまりに大きくハッキリ見えたので驚きました。
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どこまでが現実で、どこからが伝説かわからない不思議な穴森神社でした。
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次はひたすら北上し、禰疑野神社および土蜘蛛塚を目指します。
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下山していたら祖母山の頭が雲で隠れてしまいました。
そして豊肥本線を越えると、今度は北に「くじゅう連山」が見えました。
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もうすぐ「七ツ森古墳群」です。
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学術的にはさまざまな調査が行なわれているのでしょうけれど、
地元では『日本書紀』や『豊後国風土記』にある景行天皇に討たれた土蜘蛛
「打サル」「八田」「国摩侶」らの墓とも言われているようです。
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この古墳から禰疑野神社までは直線で 2km。蜘蛛塚の可能性は否定できません。
 
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禰疑野神社へやってきたら、石段前にとってつけたような鳥居…
今は社頭を道路が横切っていて窮屈そうに見えますが、
かつては社頭から南に、長い参道が続いていたことを想像させます。
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建造物など特に見るべきものはありません。
ただ、↑に兵を労(ねぎら)って「ネギノ」と名づけられたとの情報が…。
↑の『日本書紀景行天皇紀からの引用より、私はむしろ次の部分が気になります。
 
復將討打猨、侄度禰疑山。時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。
天皇、更返城原而卜於水上、便勒兵、先擊八田於禰疑野而破。
爰打猨謂不可勝而請服、然不聽矣、皆自投澗谷而死之。
打猿(ウチサル)を討とうと禰疑山を通ると賊虜の矢が横から雨のように官軍に飛んできた。
天皇は城原に返り、水上で占いをし、兵を整えると先ずは八田(ヤタ)を禰疑野で破った。
勝てないと悟った打猿は服従を誓ったが天皇に聞き入れられず、皆、谷に身を投じて死んだ。
 
禰疑野神社から300mほど南下すると蜘蛛塚があるというので細い道を南下しました。
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ちょうど300mの地点に「ネギノ神社のクスノキ」がありました。
もしかしてこの300mは禰疑野神社の参道だった? そしてクスノキ蜘蛛窟の目印?
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石碑のある土手は、のぼってみたら腐葉土なのかズズズ…と体が沈み、
長く伸びて密集した草の下は崖のようでした!?
要するに土手の幅は1mほどしかなく、危うく谷底に落ちそうになりました。
「皆自投澗谷而死之」? 土 蜘 蛛「 ウ チ サ ル 」?
 
ここまでが大分県、いよいよ熊本県へ入ります。
東から外輪山を越え、かつてのカルデラ湖を北の外輪山麓に向けて走っています。
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4年前、阿蘇神社を訪れた際に時間切れで行けなかった国造神社を目指してます。
 
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国造神社の社頭から右方向を振り返ると、根子岳(1,408m)が見えました。
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どうしても来たかった理由は鯰宮があったからです。
しかし、この宮川は奇妙ですね。コンクリート製ですか?
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想像した以上に小さかった鯰宮の土台もコンクリート製?
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この「大鯰」、きちんと鎮魂されているのでしょうか?
Wikipediaによれば
大昔の阿蘇は外輪山に切れ目が無く、中に水が溜って広大なカルデラ湖になっていた。
阿蘇大明神たる健磐龍命(タケイハタツノミコト)はこの水を抜いて田畑を造ろうと考えた。
そこで、外輪山の一部を蹴破ることにしたが、そのはずみで尻餅をついてしまい
「立てぬ!!」と叫んだ。以後その場所は「立野(タテノ)」と呼ばれるようになった。
って、↑ダジャレですか?
蹴破った場所からは大量の水が流れ出して滝となり、数匹の鹿も流されたとして
「数鹿流(スガル)が滝」と呼ばれるようになった。
湖水が引くと底から巨大なナマズが現れた。ナマズが湖水を堰き止めていたため
健磐龍命は太刀でナマズを切り、ようやく湖水が流れ去ったという。
 
その「数鹿流が滝」は2016年4月14日~16日にかけて起きた大地震で山の一部が
滝の手前まで崩落し、渓流が大量の土砂で埋まったことで景観が失われたそうです。
 
今日は熊本空港から帰京するため、今度はカルデラ湖を西の外輪山まで走ります。
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阿蘇市黒川の農村公園あぴかの(草スキーなどをする)丘を見ていたら、
運転手さんが「あ、米塚です」と仰います。
米塚は約3,300年前の噴火で形成されたスコリア丘なので形がまるで違います。
やはり熊本地震(2016)で山頂の火口縁などに亀裂が生じてしまったそうです。
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大津町を目指し、菊池赤水線をどんどん登ってゆきます。
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車一台通るのがやっとという道に入り、ドンツキまで辿り着きました!!
景行天皇18年6月16日に阿蘇阿蘇津彦・阿蘇津媛と会った時の行宮でしょうか?
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社殿は小ぢんまりとしていますが、立地は古代の神社そのものでした。
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この台地の横は、山からの水が溢れるほど流れていた川だったと思われますが、
今は底が干上がってしまい、まったく水がありませんでした。
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いつの時代の作り話だかわからないとはいえ、景行天皇親征のあとを辿るのは
なかなか興味深いものがあります。
次回は12月頃になりましょうか? もちろん11月も頑張って交渉してみますが。