古くは「神土山(しんどやま)」とも呼ばれていたとのこと。
ということで、1時間はかかると踏んで前回は断念しました。
今回は最後にゆっくりと行ってみたいと思います。
先ずは、これまで取りこぼしてきた大須賀川の東岸の皇産霊神社へ。
大戸神社から直線で西へ1kmですが、「香取海」時代は別の"シマ"でした。
とても狭い路地の入り口いっぱいに鳥居が建っていました。
キャノピーは路地奥の階段前に停めるしかなさそうです。
登り始めると、経験上(?!)社殿はこの正面ではなく、迂回しつつ上がらないと
辿り着けない気がしてきました。一社目からこれでは先が思いやられます。
やっぱり…。方向オンチのくせにこういう勘だけは働くんですよね…。
でも、だからこそ、ここはアタリなんじゃない? とも感じました。
皇産霊神社は今月学習したばかりですが、辞書に
神皇産霊神(かみむすひのかみ)を万物生成化育の根源となった三神という」
とあった造化三神を奉斎していたんでしたよね?
皇産霊神社もありました。読みは「みむすび」と「こうさんれい」があり、
当社がどう発音されるのかはわかりません。
台地のテッペンに小ぢんまりとした社殿がありました。
その社殿の屋根瓦を見てビックリ!?
いわゆる鬼瓦の先端横に、波の文様がついてました!
これは海人族の神社であることの証では?
八幡にハトが付きもののように、トーテムは非常に重要です。
格子のあいだにカメラを入れて撮ったら、龍の彫りものもありました。
「香取海」に面したこの高台で海人族の祭祀が行なわれていたのではないでしょうか?
いや、しかし、一段低い場所にはキツネの稲荷信仰が!?
社殿から二段階低い台地からは、かつての「香取海」が見えました。
神仏習合時代、ここには寺があったのかも知れません…。
登る時にはおっかなびっくりでしたが、テッペンは気持ちのよい空間でした。
そして参道の藪ツバキが社叢好きの私の足取りを軽くしてくれました。
あの橋を渡ってきました。これが一級河川? と驚きましたが、
側溝のような小さな川も一級河川という扱いになるのだそうです。
それなら尚更、地元では大戸川と呼ばれていた可能性が高そう…。
川沿いにバイクを置いて徒歩で禅昌禅寺に隣接する古墳を見にゆきました。
が、頭頂部に三峯神社が置かれて墳丘の形がわからなくなっていました…。
なぜこういうことをするのか説明して頂きたいものですが、
恐らく、先住民の古墳を抑えて、当地を征服した証にしたのでしょう。
香取にはこうした例が少なくないようです。
芝山町立「芝山古墳・はにわ博物館」の web site「房総の古墳を歩く」に
低地(標高3m)にある6世紀後半に造られた全長90mの前方後円墳
仁井宿浅間神社古墳など」とあるものの、同古墳について
「後円部の墳頂に神社が造られ、そのために地形が変わり、
墳丘の美しさが消えてしまったのは残念」と書かれていました。
あれですね。近づきたいのですが、道がないので無理です。
私有地にバイクを停めて歩く訳にはまいりませんし。
少し拡大したら、右側に浅間神社参道にある建物らしきものが見えました。
「房総の古墳を歩く」には香取神宮の西に隣接する又見古墳についても、
「神社に向かって右手に石室がある。神社建設の時に大部分が削平され、
墳形もよく分からない。築造時期は7世紀代。横穴式石室は黒雲母片岩製」
「神社社殿の脇に石室の石材だけがポツンと残り、古墳の盛り土は削られ、
その形もわからない。古墳が身ぐるみはがされた感じで、心が痛む」と
現状に対する心情が綴られていました。
香取神宮へ向かうと駐車場に入る順番待ちの車が長蛇の列をなしていたため
又見古墳はパスし、先日行けなかった天宮神社へ行くことに。
ここは何と香取市新市場(にいちば)という不思議な地名です。
参道右の台地にヒタキ科の鳥がいました。撮影しても逃げません。
参道を崖の手前まで進むと、左に鳥居と社殿がありました。
私はどんな神社へ行っても先ず社殿をぐるりと一周します。
社殿に向かって右側は崖ですが、奥には社叢が広がっていました。
社殿の前に立って左をみたら、さっき走ってきた道路が見えました。
由緒書きなどは一切なく、天宮神社の読み方もわかりません。
下総国の仕上げをしようとやってきたのに、わからないことが増えるばかり…。
道端に突然キツネが出現すればギョッとします。夜だと運転を誤りそう…。
香取市内には稲荷が多いようですが、人がキツネを信仰する理由がわかりません。
千葉の妙見信仰と言えば千葉氏で、祭神は北辰妙見尊星王だと思っていたため。
周囲が畑になっていて、社叢はあまり広くないものの樹が高いので古そうですね。
当社には由緒がありましたが…、ちょっと待ってくださいよ。
天慶年間(938-47)という当社の創建は千葉氏の誕生よりも早いことになります。
それでアメノミナカヌシを祭神にしているのでしょうか?
でも、これって北辰妙見尊星王ですよね?
いつものように裏へまわったら「大己貴命」とありました。
オホナムチが大元の祭神であった可能性はないのでしょうか?
日本の神社は何でもありなのでサッパリわかりません。
赤い本殿からは千葉神社の影響を感じるのですが…?
しかし…この老神木の迫力はどうでしょう!?
この時点で14時半。今日は珍しく迷わなかったのと演奏修行をパスしたので
あとは神道山古墳群を残すのみとなりました。
そこで少し寄り道することにし、ここから1分ほどの出戸稲荷神社へ。
道端に、まるで道祖神のように佇んでいました。
赤くありませんね。鳥居は大きいのに、とても小さな社殿がポツンとありました。
さっき通った宇賀霊神社が稲荷と称し、こちらが宇賀ならわかりやすいのに…
なんて余計なお世話ですね。実際に足を運んでもわからないことばかりなんですから。
下総国の神社めぐりは本当にハードルが高いです。
こののち地図上で神道山古墳群への途中にある神社を探したものの…。
珍しく、しっかりした道標が目に入りました。これなら安心です。
まさか、この分岐をあがる? 藪ツバキもあるし。
再び分岐です。こういう場合、直進せず、先ずは右のテッペンへ行きますよね?
逆光なのでわかりづらいですが、赤いトラクターが見えました!!
笹原神社への道を尋ねると、ここまでバイクで来たことに驚かれもせず
「この下の道にあるよ」と教えて下さったので、左側の崖を気にしつつ進みました。
枝や小石を巻き込んだりして、バイクが異音を発しています。
メンテナンスしたばかりなのに、すぐに壊してしまいそう…。
え…?! これが神社? そうですよね…このサイズじゃないと道幅に納まりません。
さらに奥まで行ってみようとしましたが、すぐケモノ道に。
いえ、誰に騙されたわけでもありません。自分で見つけてバイクを走らせました。
これが下総国の"シマ"にある神社です。最後の最後に頭に叩き込みました。
未舗装路を下りながら、この斜面を掘ったら貝層が出てこないかしら?
とわくわくしました。縄文海進が約2.7mとされる香取周辺の"シマ"は
太古から生活の場で、縄文~古墳時代の遺跡が数多く発掘されています。
台地を下りたら、かつての海岸線を走って神道山古墳群へ。
なぜか鳥居がありますが、場所的にはここでしょう。
ここは利根川に面した「津宮浜鳥居」からバイクで1-2分の距離です。
●津ノ宮とは、現在の「香取神宮」への参道入り口となる港。
そこに神道山古墳群があるわけです。
「香取神宮」の「香取」は「楫取(かぢとり)」の転訛とされており、
「楫取」とくれば「磯良」。アントンイソラ、カヂトリノイソラetc.
すると神道山古墳群の主は豊玉族=安曇氏だった可能性があります。
鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。
常州鹿島の海底に居す。一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。
九州にきたる。 勅によりて、梶取となる。
鹿島明神=タケミカヅチ=宇賀神=磯良=梶取と明言してますね…。
天地の初め、草や木が言葉を語っていたころに、天より降り来たった神があった。
その名は普都(ふつ)の大神、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを
和めたため天に帰ろうと、身に着けていた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、
手に付けていた玉など全て、この国に捨て遺して行った。
葦原中津国には諸説ありますが、ここ「香取海」にもありました。
そして、●楯縫神社の「楯縫ひ」は「楯脱ぎ」の転訛で、今も
この地で皇軍に敗れて帰天したということでしょうか?
「香取神宮」の祭神たる経津主(フツヌシ)神とするのが一般的ですが、
その妻を「香取神宮」の祭神とする説を唱える人もあるようです。
また
『出雲国風土記』等から、葦原中津国を平定したのはフツヌシで、中臣(藤原)氏の
台頭によりタケミカヅチがクローズアップされたと考える人もあります。
フツヌシは、タケミカヅチの別名であるとか、
霊剣「フツノミタマ」を神格化したものだとか、諸説ありますが、
霊剣「フツノミタマ」の神霊は、備前国「石上布都魂神社」や
このあたりの歴史をわかりづらくさせているのは
「香取海」周辺で滅ぼされた先住民が奉斎していたのが物部の祖神フツヌシ、
そして皇軍が名乗ったのが海神豊玉族=安曇氏の「楫取」転じて「香取」、
その「香取神宮」が祭神を経津主(フツヌシ)神としたためでしょう。
これは、吉備国の事例とも重なりそうです。
吉備津彦命に入れ替わったという説と「香取」が重なるのです。
彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと/比古伊佐勢理毘古命)は
吉備津彦命・大吉備津日子命と名乗って吉備上道臣の祖になり、
弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)は若日子建吉備津日子命と名乗って
吉備臣・吉備下道臣・笠臣の祖になったと記紀にあります。
日本神話は勝者のものなんだと痛感させられます。
さあ、階段をのぼりましょう。
足元、悪すぎます(階段の高さがかなり違うので下りが大変でした)。
よく考えたら、そういう位置関係なのですけれど。
振り向くと只ならぬ雰囲気!? 円墳を削って神社を建てていたようです。
向かって左側の狛犬らしきもの…ですが、狛ギツネだったのでしょうか?
イヌかキツネかわかりませんが、作った方も壊した方もどっちもどっち、
人のお墓にいったい何をしてるんでしょう…。
「フツノミタマ」の霊剣で狛ギツネの首を刎ねたとでも?
しかしハイキングコースと銘打つなら、きちんと片付けるべきでは?
いや、子どもたちに栄枯盛衰や人の醜さを伝えようとする
教育的配慮なのかもしれませんね。
円墳を削って作った神社は石祠だけとなり、裏側に桝原稲荷神社が建っていました。
香取神宮の所有だとしたら、円墳に神社を建てたことを批判され移したのでしょうか?
さらに奥まで行って神社と円墳を撮ってみました。
鹿島方面を撮りつつ、この"シマ"の下まで「香取海」が来ていたと想像してみたら
舟なら筑波山はすぐそこ…と胸が逸りました。
ここから1時間半ほど走って帰宅したら17時25分でした。
ずいぶん日が長くなったものです…。