2020年の冬至は(計算上)12月21日19:02なのだそうです。
北半球ではこの日が1年のうちで最も昼(日の出~日没)の時間が短いとされ、
暦の上では冬至で1年間の干支が切り替わるのだとか。
冬至はまた、日本や中国のみならず、世界各地で重要な"節目"の日とされ、
季節の行事が行なわれたり、祭日になっていたり。
太陽神ミトラを祝う冬至の祭があったそうです。
12月25日がキリストの生誕祭に定められたのはコンスタンティヌス帝統治下の
ローマでのことで、遅くとも354年には始まっていたと言われています。
さらに、十二支を12年周期で見ると、新たな12年周期に切り替わるのは
子年から丑年へ移行する時の冬至で…って、それ今日でしょ? と気づいたので
ここまでの12年をまとめ上げるために神楽歌の演奏修行をしてきました~。
突然思い立ったので遠出をせず、近場を走っています。
かつて「香取海」の"シマ"だったと思われる場所をまわってきた続きです。
これまで気になっていた場所を迂回しつつ行きます。
以前、足を運んだ際のブログは↓こちら。
六所神社からの帰途、古道を下った際にうっかり疣神を見落としたため再訪します。
たぶんここを上りきると六所神社ですね。
ここ竜台(たつだい)には古代の道が残っているようです。
やはり地図通り疣神がありました!
ミシャグチが「おしゃもじ」と転訛してシャモジが奉納される民間信仰が
ありますが、それがヒシャクになった例かも?
この道の雰囲気が素晴らしかったので、疣神を見落としてしまったんですね…。
竜台という文字通り台地の上に鎮座している六所神社です。
今日はこのまま通過して次の"シマ"を目指します。
この川は恐らく利根川の支流 根木名(ねこな)川です。
竜台から東南へ10分ほど走ったところに「磯部」の地名がありました。
五絃のコトをもつ海人族が居たのかも?
あのこんもりのようですが、入り口がわからず通り過ぎてしまいました。
明治以降の呼称ではなく、以前の名称を知りたいと思ったら石碑がありました。
「磯部大神」ですか…。私の好きな「志摩大明神」ではなかったのですね。
ここは低地なので比較的新しいのでしょう。社殿の位置から筑波山が見えました。
向かって左手がさっき通ってきた根木名川です。本当に筑波山がよく見えますね。
さぁ、今日のメイン月輪台古墳群を目指すとしましょう。
北東を目指して走っていたら、道路脇に古社らしきものが!?
バス停があったので見ると「八幡神社」でした。
日本中に山のようにあるため「八幡神社」は素通りすることにしています。
が、何となく気になったので正面にまわってみました。
ZOOMERと違い、キャノピーだと宅配のおばさんですね…。
鳥居前にキャノピーを停めて鳥居左手の案内板を見ると、江戸時代から
約1km北の耀窟神社とともに西大須賀神楽の獅子舞を行なっているのだとか。
すると、以前耀窟神社で見た石碑の「若宮八幡」は当社のことだったのでしょうか?
ともかく中へ入ってみましょう。
境内社の跡でしょうか?
社名が明記されているのは珍しいですね。
ここから耀窟神社の前を通って、東進しました。
ナビがこの道に入れと言ってますが?
じきにこんな感じです。
最近ここを通った人(車両)があるでしょうか?
引き返すのも大変なので、落ち葉を巻き込みながら前進しました。
滑りそうな坂を上り切ったら左手に鳥居がありました。
が、道が狭くて社頭には停められません。
もう少し進んで左折したら駐車スペースがありました。
じい…っと見られています。ご近所の奥様のようです。
「すみません、古墳はどの辺りでしょうか?」
「古墳なんてありませんよ、聞いたこともない」
「地図には月輪台(つきのわだい)古墳群・月輪(げつりん)神社とあるのですが?」
「あの辺りが古墳群でしょうか?」
「いえ、子どもの帯解き式の時にあの奥の天神さんにお参りに行くんです」
「え? 神社のあたりでも暗いのに、あの奥まで歩くんですか?」
「ちょっと小高いところへ登るんですけど、一人じゃ怖くて行けませんよ」
しかし、一人で行くしかありません。
月輪神社の後方は明らかに古墳ですね…。
社殿の前を通って左手を見ると「天神様まで30m」の看板がありました。
こわごわ進むと階段が見えました。あそこが天神様でしょう。
ド迫力でしたが、子どもたちでも登るというので頑張って上っていたら
階段の途中(この辺り)でバッサバサと大きな音を立てて何かが飛んでゆきました…!?
やはり、ここも古墳でしょう。
すぐに天神様から下りて、さらに奥に進みますと「立入禁止」のテープが。
あっちもこっちも古墳のようです。
帰宅して調べたら、14号墳まであるとのこと。
ふつうに土器や埴輪の破片が落ちているそうですが、怖くて拾えませんでした。
極めてデータが少ないとはいえ、もっと調べてゆくべきでした。
帰りは遠回りになりますが、別の道を選びました。
カーブを二つ経て下りたら、やっぱり筑波山が見えました。
16時44分、新利根川を越えていた時、富士山が見えました。
買い物をしてから帰宅し、パソコンで↓この画像を見て吃驚!!
暗くてよく読めなかったので撮ってきたら、判然としない部分もあるものの
冒頭に「髙岡村髙の郷」の字が見えました。
「髙岡村髙の郷」というのがよくわかりません。が、高・多賀・多珂…の「タカ」、
《薦枕》の歌詞「誰(た)が贄人」の「タカ」であり、「高瀬の淀」の「タカ」です。
「髙岡村髙の郷」について調べたら、近くに「成田市高岡」がありました。
高岡県となった後、新治(にいはり)県を経て千葉県に編入されています。
書かれたもののようで、古代の多賀・高とは関係ないようですが、
月輪神社のある高は、鎌倉期は「多賀郷」、江戸期は「高村」と
書かれていました。すると、「高村」と「高岡村」があった?
はてさて「多賀郷」へ《薦枕》を演奏しにゆくべきかどうか…。