歌舞伎十八番「鳴神」で有名な京都鴨川の最初の一滴が湧く洞窟へ
向かったのは6年半前の2016年3月19日でした。
この日は、高野川の代表的な支流「呂川」と「律川」が流れる大原盆地へも行きました。
(川の名称は「呂律が回らない」という常套句を生んだ「呂旋」「律旋」からきています)
今年4月には、裏鬼門へも行ってみました。
最古の記録が『宇多天皇御記』の寛平2年元旦(890年1月25日)にあるそうです。
「四方拝」とは?
説明を読んでも理解できないのですが、鬼門「坤」や裏鬼門「艮」とは無関係で、
東西南北を拝するということのようです。
しかし平安京の鬼門「艮」と裏鬼門「坤」へ行った私にとっての「四方」の残りは
上の図の「乾」と「巽」ではないのか? との考えが唐突に湧いてきて、
「艮」にあたる大原三千院とほぼ同じ北緯35.11の「乾」へ行ってみることに。
ついで…というわけではなく、冒頭の鴨川の水源「岩屋不動」へ行った際に
立ち寄りたかった道風神社と氷室神社へ行くためにバイクを借りました。
氷室神社への道は「離合不能」「離合困難」として知られているため。
小ぢんまりと調った神社ですね。ここまでバイクで入ってしまいましたが、
左手へ出たら元の道に戻れました。
気持ち的には、このまま162号線で小浜まで行きたかったのですが、
いくら何でも無茶なので、大原三千院とほぼ同緯度の岩戸落葉神社までに
とどめました。住所は京都市北区小野下ノ町。「小野」ですか…。
清滝川を遡ってゆくのがいい感じですね…。
トンネルを走るのは嫌なのですが、今日は殆ど車を見かけなかったので安心でした。
トンネルを2つ抜けたら「北山杉の里」がありました。
それから小野郷へ入りました。林業の町なのでしょうか。
右手に「小野郷へ移住しませんか」の看板がありました。
ほどなく人家が多くなり、162号線から右へ入ったら岩戸落葉神社がありました。
左奥にバイクを停めたものの、韓国語を話すカップル(!?)が鳥居の前で
ポーズをとりつつ撮影会をしていて、なかなか中へ入れません。
やむなく横の道から撮りましたが、黄色の絨毯がきれいです。
私と同じ位置にカメラマン(アマチュア?)っぽい男性が待機しておられました。
かなり長く待っている感じですが、私はここで時間を使うわけにはいきません。
ずうっと同じ位置でポーズをとっておられる方々へ、ぐぐっと圧力をかけるべく、
女性の左手から鳥居を撮り、中へ入りました。扁額を見たらWネームの神社でした。
私には物語の登場人物(光源氏とか明石入道とか…)の足跡を追う趣味はないため
朱雀院女二の宮(落葉の宮)も素通りさせて頂きます。
ただ、由緒はどうあれ、「岩戸」なら岩盤が御神体のはず。
社殿を横目に、一目散に裏へまわると巨大すぎる岩盤がありました。
そして、岩盤そのものを御神体とする摂社もありました。
古代祭祀の雰囲気を感じられる場所だったので演奏修行してみました。
楽器を片づけ、ケースを背負って帰ろうとすると、先ほどの女性が社殿の前で
神社で“二礼二拍手一拝(礼)”している様子に驚きましたが、“五体投地”とは!?
日本のやり方ではありませんよね?
とはいえ、“二礼二拍手一拝”の起源も150年ほどしか遡れないようです。
皇室の儀式や祭典などを取り仕切る宮内庁式部寮による「神社祭式」という
書物に「再拝拍手(さいはい・はくしゅ)」と記載されたのが始まりだったとのこと。
地図を見ずに走り出しましたが、この橋を渡るのだと思いました。
橋の上で次の道風神社をナビにセット。5分で到着と出ました。
ところが、その先、ナビが無言になってしまったのです。
この暗さはおかしい…。もしかして北上してる? と方向音痴の私が疑いました。
たしかに二叉路があったけれど、こちらの方が広かったし、まさかあのような橋を
渡るとは思いませんでした。でも、すでに5分は走ったのに建物などありません。
そうそう、この橋です。ちょうど5分かけて引き返してきました。
ここでじっくりと地図を見ました。
あのまま暗い道を登って行ったら、冒頭の「岩屋不動」へ行けたんだ…!?
いやいや、ちゃんと鷹峯街道に戻って道風神社を目指しましょうね。
鷹峯街道は橋が多いですね。
そろそろ4分経ちました。この先が道風神社(京都市北区杉阪道風町)でしょう。
道風神社はやはり書の大家 小野道風が祭神でした。
その屋敷跡だったとも伝わりますが、真偽のほどはわかりません。
当然、社殿まで行くつもりでしたが、道を間違えて10分ものロスがあり、
この時点で16時になっていました。今日の日没は16時49分です。
なんとしても氷室神社へゆかなくてはなりません。
この鷹峯街道もかなりなものでしたが、氷室神社へは名もなき道を走るので。
ほら、鷹峯街道にもあった「離合困難」の看板…。
氷室神社への道はずうっと「離合困難」なのでバイクを借りた次第です。
標高446mの京見峠あたりまで下って、西賀茂氷室町方面へ登るY字路を探さねば。
あ、ここを左折ですね。一応、地図で確認しました。
しかし、ずうっと登りです。京都駅からレンタルバイク屋さんまで乗った
タクシーの運転手さんが「50ccで走るような道じゃない」と仰っていた通り。
ですが、まだまだ登りますよ。と覚悟していたのに、突然の下り!
だんだん道の凸凹が気になり始めましたが、私がこれまで走った山道よりもマシ。
更にガタンゴトン…音と振動が増しましたが、どうやら着いたみたいです。
山の陰になっていて暗いのですが、右手にあった案内板によれば、
この先、左奥に「氷室跡」があるようです。
闘鶏の地で穴倉を見つけた額田大仲彦命が、闘鶏稲置大山主命に
大鷦鷯尊(仁徳天皇)へ氷を献上させたという伝説があります。
闘鶏稲置大山主命と申し上げる奈良の東山一帯の山の神」とあります。
そして、ここ京都市北区西賀茂宮山の氷室神社の祭神も、
額田大仲彦命に氷を献上した稲置大山主神とされているのですが、
これは過去の神話や伝説を上書きしただけかも?
と疑ってきたら、中世以降に清原家が勧請したと書いてありました。
『延喜式』に記録があったとしても、それは10世紀のものです。
むろん平安京の「氷室」だったことを否定する気はありませんし、
藤原定家(1162-1241)の和歌が当地を詠んだ可能性もあるでしょう。
ただ、私的には「古来痘瘡の神として信仰され」の一節の方が気になりました。
さほど奥行きは深くありません。そして社殿も小ぢんまりとしています。
鳥居を入って直進した突き当たり左側に社殿がありました。
「痘瘡の神」が稲置大山主神に取って代わられたとしたら、
社殿が鳥居の正面になくて当然…と言えるのかもしれません。
京見峠あたりですが、眺望がありません。
さらに下ってゆくと、一瞬、視界が開けました。
あれは…もしかして比叡山?
さらに下って16時42分。日没直前の空です。
結局、17時頃にレンタルバイク屋さんへ帰着。
14時過ぎに出発し、行列ばかり見た3時間足らずのミニミニ旅でした。
バス停で行列、お店で行列、車も行列する中、バイクでスイスイ走りました。
荷物が重すぎて京都駅からタクシーに乗ろうとした時点から行列でした。
これではいつタクシーに乗れるかわからないので郵便局の方へ歩いてゆくと
ちょうどタクシーから降りようとする方がおられました。
運転手さんにお尋ねすると「乗っていいよ」と仰います。
「ラッキーだったね。今日はタクシーなんかつかまらないよ」
「そうですか…10日前にも来たんですけど、結構ひろえました」
「10日前とじゃ全く違うよ。これから年末に向けてどんどん忙しくなる」
「来月もまた来て泊まるんですけど…」
「タクシーはアテにしない方がいいねぇ…今日はレンタルバイクでどこへ行くの?」
「162号線で高山寺方面から北上して小野郷、帰りは鷹峯街道を下ります」
「それはダメだ。行楽シーズンだから道が混んでいて動けなくなるよ」
たしかに…駐車場はいっぱいでした(月曜を選んで来たのに…)。
でも、京都方面へ下りる車ばかりで、小浜方面へ向かう車は極く少数です。
「途中で引き返すようだよ」と言われたのに、ほとんど一人旅。極めて順調でした。
「50ccで走れるような道じゃない」と言われても、50ccだったからこそ走れました。
イケズやわぁ…。
落とし穴は夕食にありました。
和久傳は一人では入れないため、一人旅の場合は京都駅の「はしたて」へ行きます。
時間を有効に使うには予約が必須ですが、月曜の17時半だったし、
予約せずに向かいますと、同じフロアのお店は全て行列ができていました。
40分待ちと言われ、予約票を貰ってからホテルにチェックイン後
再訪したら、列は更に長くなっていました。
アレルギーがあるため、いつも同じメニューをお願いします。
夜中に食べました。
デザートはよく取り寄せている西湖(せいこ)です。
ま、こんな食生活では痩せることなど望めませんね…。
明日も頑張ります!