との話を20年前に聞いた時、ホント? という気持ちと、四国の宇和島藩に
比べれば近いので、あり得るかも? との思いがありました。
その証拠の一つが愛宕神社でした。
偶然ながら、亀岡で元愛宕へ行ったことで繋がりました。
仙台と言えば愛宕神社。
創建は慶長8年(1603)で、隣接する虚空蔵山大満寺は
同年に経ヶ峯の虚空蔵堂を愛宕山に移したものだそうです。
虚空蔵堂は「仙台」の地名のルーツとなった「千躰仏」を祀っていたこと、
伊達家二代藩主・忠宗公の位牌寺になったことでも知られています。
そしてこの虚空蔵山大満寺は家人の母方の菩提寺でもあるのです。
「御墓参りに行った時、愛宕神社まで歩いたよね」と言われたものの…(記憶ナシ!?)。
そこは大崎・葛西一揆で廃城となった氏家氏代々の本拠地「岩手沢」城でしたが、
ここを本拠地にしていました。当時、政宗は秀吉から羽柴の名字を与えられていたこと、
大崎(現 大崎市)にあった城を拠点としていたことから、「羽柴大崎侍従」と呼ばれたそうです。
残念ながら、807年創建の根拠は見つけられず、より信頼できるデータとして
自らを藩祖とする仙台藩を誕生させました。
「仙臺領」と刻んだ石柱を建て、陣屋を構えて代官を置いたそうです。
この時、仙台からカマボコ職人を連れて行ったことで、宇和島に「じゃこ天」が誕生!?
「龍ケ崎」の地名については、
江戸時代の学者・中山信名が記したとされる書物『新編常陸国誌』にある
幾つかの古城が建つ台地から稲敷台地に連なってそそり立つ形が龍を思わせる
との説を私は支持しています。
この台地にある北竜台・龍ヶ岡などの新興住宅地や工業団地が
昭和52年(1977)に開発が始まり、昭和56年(1981)に入居開始となった
「竜ヶ崎ニュータウン」です。台地沿いの道ではこういう地形をよく見ます。
明治37年(1904)に男女の人物埴輪が1体づつ出土したそうです。
古墳の上に建てられた神社へ行くのは本当に嫌なのですが、
ここは仙台藩の考えの一端を知るためにも、上る必要があるでしょう。
こんなに低い古墳でも、上れば市内が一望できるらしいのですが…。
想像していたより、こぢんまりとした社殿でした。…というか古墳が大きい?
これは、下から見たイメージ以上に広い空間ですね。
昔は今ほど住宅がなかったかもしれないし、領地を見渡す目的もあったのでは?
なかなかの巨木です!! 寛永18年(1641)の創建前からあったのでしょうね。
社殿の奥には注連縄を掛けられた御神木が。
2本の巨木のあいだに道があって、あの建物から直に上がって来れそうです。
この碑文にあるように、伊達家が愛宕神社を崇敬してきたことはよくわかりました。
そして、幕末に北海道へ移住した数多くの仙台領民も、開拓した村に必ずと言っていいほど
…となると宇和島が気になりますが、
中国っぽい彫刻ですね。
牛でしょうか? 顔は猪豚みたいですけど?
龍ケ崎市観光物産協会のホームページにこうあります。
社殿は表6尺・奥行き6尺5寸の総檜造りで、龍や鷹の優れた彫刻が施されています。特に
左甚五郎作と伝えられる鷹の彫刻は逸品で「飛鳥恐れて避ける」と語り伝えられています。
しかし、左甚五郎が活躍する時代はこれより後ですし、左甚五郎という人物が相当に
理想化されて伝えられているので、これはあくまでも伝説であると言って良いでしょう。
しかし、左甚五郎云々よりも、どんな題材を彫っているのか教えて貰いたい私です。
今日の舞台は↑こちらでした。広々してて気持ちよかったです。
神楽歌と大歌を演奏していたら夕日がさしてきました。
振り向くと、空には月。
さきほどの巨木も夕日を浴びて何だかあたたかそうです。
そうそう、ここ龍ケ崎から伊達家に入った女性が居たそうです。
仙台藩二代藩主・忠宗の側室となった「たけ」さん。
龍ケ崎陣屋の大番士だった山戸土佐の娘「たけ」は、4歳で親を失った後、
大名の姫のような教育を受け、忠宗の側室となって宗房・宗章の2子をもうけました。
その宗房の子・吉村が本家を継いで五代藩主をつとめたことで、側室「たけ」は
藩主の祖母として「小笹の方」と呼ばれた上、94歳という長寿を全うしました。
「たけ」こと「小笹の方」は忠宗が他界したとき46歳で落飾し「慶雲院」となって
その後、宗房が亡くなると、子の吉村は両親と祖母「慶雲院」の御霊屋(おたまや)を建て、
自筆の「慶雲院」の額を掲げたそうです。
人の世は不思議ですね…。ひょんなことから仙台に思いを馳せました。
さまざまなことを知り、来た時よりも幸せな気持ちになって愛宕神社をあとにしました。
少し走ってから振り返ると、やっぱり古墳だ…と思いました。