藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

愛宕神社(元愛宕→京都→米沢遠山→岩出山→仙台→龍ケ崎)

水戸街道が通る常陸国龍ケ崎村は、江戸時代、仙台伊達藩の領地だった…
との話を20年前に聞いた時、ホント? という気持ちと、四国の宇和島藩
比べれば近いので、あり得るかも? との思いがありました。
その証拠の一つが愛宕神社でした。
偶然ながら、亀岡で愛宕へ行ったことで繋がりました。
 
仙台と言えば愛宕神社
宮城県仙台市太白区向山にある標高75mの愛宕山山頂に鎮座しています。
創建は慶長8年(1603)で、隣接する虚空蔵山大満寺
同年に経ヶ峯の虚空蔵堂を愛宕山に移したものだそうです。
虚空蔵堂は「仙台」の地名のルーツとなった「千躰仏」を祀っていたこと、
伊達家二代藩主・忠宗公の位牌寺になったことでも知られています。
そしてこの虚空蔵山大満寺は家人の母方の菩提寺でもあるのです。
「御墓参りに行った時、愛宕神社まで歩いたよね」と言われたものの…(記憶ナシ!?)
 
伊達政宗(1567-1636)は、永禄10年に出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗
正室(最上義守の娘)義姫の嫡男として生まれました。が、小田原城を攻略した豊臣秀吉
奥州仕置に反発した一揆発生後、天正19年(1591)24歳で「岩出山」城に転封されたのです。
そこは大崎・葛西一揆で廃城となった氏家氏代々の本拠地「岩手沢」城でしたが、
政宗の居城になってから「岩出山」城と改められ、仙台城築城までの足かけ12年、
ここを本拠地にしていました。当時、政宗は秀吉から羽柴の名字を与えられていたこと、
大崎(現 大崎市)にあった城を拠点としていたことから、「羽柴大崎侍従」と呼ばれたそうです。
 
山形県米沢市遠山町の愛宕山(標高559m)に大同2年(807)創建と伝わる愛宕神社があり、
総本社は京都市右京区嵯峨愛宕町愛宕神社と言われています。
残念ながら、807年創建の根拠は見つけられず、より信頼できるデータとして
「永禄年間(1558-70)紀州那智の滝で千日修行をした天台派の山伏尊勝法印が
米沢の愛宕山に創建し、誓願寺別当とした神社」がありました。
米沢市には、このとき伊達政宗が京都の愛宕神社から御神体を勧請して祀ったとか、
天正16年(1588)愛宕神社本社から尊像を授かって奉納したなどの伝承があります。
そして天正19年(1591)に米沢から大崎への政宗転封に伴ない、愛宕神社岩出山遷座
 
関ヶ原の戦ののち、伊達政宗徳川家康に城と城下町を仙台に建てたいと願い出て
自らを藩祖とする仙台藩を誕生させました。
慶長8年(1603)政宗愛宕神社を一時、国分荒牧村(現 元寺小路)に仮遷座させた後、
向山の現在地に遷座させていますが、ここまで愛宕神社に拘った理由は不明。
 
さて、慶長11年(1606)伊達政宗徳川幕府常陸国河内郡と信太郡26カ村(1万石余)
与えられたことで仙台藩常陸国龍ケ崎領が誕生しました。
仙台藩常陸国支配の中心地を龍ケ崎村とした政宗は、街道の出入り口に
「仙臺領」と刻んだ石柱を建て、陣屋を構えて代官を置いたそうです。
 
なお、慶長19年(1614)大坂冬の陣では、将軍秀忠より伊予宇和島10万石を賜り、
政宗庶長子の秀宗(1591-1658/二代藩主忠宗の異母兄)によって宇和島藩が立藩されました。
この時、仙台からカマボコ職人を連れて行ったことで、宇和島に「じゃこ天」が誕生!?
 
龍ケ崎」の地名については、
江戸時代の学者・中山信名が記したとされる書物『新編常陸国誌』にある
幾つかの古城が建つ台地から稲敷台地に連なってそそり立つ形が龍を思わせる
との説を私は支持しています。
この台地にある北竜台・龍ヶ岡などの新興住宅地や工業団地が
昭和52年(1977)に開発が始まり、昭和56年(1981)に入居開始となった
「竜ヶ崎ニュータウン」です。台地沿いの道ではこういう地形をよく見ます。
この先に、寛永18年(1641)政宗の子で仙台藩二代藩主・伊達陸奥守忠宗(1600-58)
龍ケ崎に創建した愛宕神社があります。地図には「愛宕山古墳」(前方後円墳)とも。
明治37年(1904)に男女の人物埴輪が1体づつ出土したそうです。
古墳の上に建てられた神社へ行くのは本当に嫌なのですが、
ここは仙台藩の考えの一端を知るためにも、上る必要があるでしょう。
こんなに低い古墳でも、上れば市内が一望できるらしいのですが…。
想像していたより、こぢんまりとした社殿でした。…というか古墳が大きい?
これは、下から見たイメージ以上に広い空間ですね。
昔は今ほど住宅がなかったかもしれないし、領地を見渡す目的もあったのでは?
なかなかの巨木です!! 寛永18年(1641)の創建前からあったのでしょうね。
社殿の奥には注連縄を掛けられた御神木が。
2本の巨木のあいだに道があって、あの建物から直に上がって来れそうです。
調べたら、隣接するのは龍ケ崎市龍ケ崎中学校(旧 愛宕中学校)でした。
この碑文にあるように、伊達家が愛宕神社を崇敬してきたことはよくわかりました。
そして、幕末に北海道へ移住した数多くの仙台領民も、開拓した村に必ずと言っていいほど
愛宕神社を祀っていたそうです。龍ケ崎愛宕神社を祀ったのも同じ理由でしょうか。 
…となると宇和島が気になりますが、
地図に「愛宕公園」「愛宕町」はあっても愛宕神社は見当たりませんでした。
 
彫刻が評判の龍ケ崎愛宕神社の社殿は、宝永5年(1708)に再建されたものだそうです。
中国っぽい彫刻ですね。
牛でしょうか? 顔は猪豚みたいですけど?
龍ケ崎市観光物産協会のホームページにこうあります。
社殿は表6尺・奥行き6尺5寸の総檜造りで、龍や鷹の優れた彫刻が施されています。特に
左甚五郎作と伝えられる鷹の彫刻は逸品で「飛鳥恐れて避ける」と語り伝えられています。
しかし、左甚五郎が活躍する時代はこれより後ですし、左甚五郎という人物が相当に
理想化されて伝えられているので、これはあくまでも伝説であると言って良いでしょう。
しかし、左甚五郎云々よりも、どんな題材を彫っているのか教えて貰いたい私です。
 
今日の舞台は↑こちらでした。広々してて気持ちよかったです。
神楽歌と大歌を演奏していたら夕日がさしてきました。
振り向くと、空には月。
さきほどの巨木も夕日を浴びて何だかあたたかそうです。
そうそう、ここ龍ケ崎から伊達家に入った女性が居たそうです。
仙台藩二代藩主・忠宗の側室となった「たけ」さん。
龍ケ崎陣屋の大番士だった山戸土佐の娘「たけ」は、4歳で親を失った後、
政宗正室・愛姫に見込まれて引き取られ、桜田門の伊達家上屋敷に住んで
大名の姫のような教育を受け、忠宗の側室となって宗房・宗章の2子をもうけました。
その宗房の子・吉村が本家を継いで五代藩主をつとめたことで、側室「たけ」は
藩主の祖母として「小笹の方」と呼ばれた上、94歳という長寿を全うしました。
孫の五代藩主・吉村は名君の誉れ高く、享保3年(1718)には龍ケ崎を訪れています。
 
「たけ」こと「小笹の方」は忠宗が他界したとき46歳で落飾し「慶雲院」となって
青葉城の大奥を去りました。 その「慶雲院」の子・宗房は、生母「慶雲院」が亡くなると
現在の宮城県黒川郡大和町宮床に慶雲寺を建立し、菩提を弔いました。
 その後、宗房が亡くなると、子の吉村は両親と祖母「慶雲院」の御霊屋(おたまや)を建て、
自筆の「慶雲院」の額を掲げたそうです。
その上で慶雲寺を大義山覚照寺と改称し、宮床伊達氏の菩提寺としたのです。
 
人の世は不思議ですね…。ひょんなことから仙台に思いを馳せました。
さまざまなことを知り、来た時よりも幸せな気持ちになって愛宕神社をあとにしました。
少し走ってから振り返ると、やっぱり古墳だ…と思いました。