藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

星田妙見宮

つい先日、iPadを開いたら「石宝殿(いしのほうでん)古墳」の画像が目に飛び込んできました。
寝屋川市東端の打上元町にある北河内唯一の古墳時代末期に属する古墳なのだとか。
江戸時代には横口式石槨が露出していたと記録され、今も、平らな底石の上に
埋葬部分をくり抜いた蓋石(直径3m、高さ1.5m)を重ねた様子が見られるそうです。
扉があったはずの玄室部の手前に板状の2石が平行に向き合う構造の古墳は
斑鳩町竜田御坊山3号墳 ↓、明日香村鬼の爼(まないた)・雪隠(せっちん)と同じだそうです。
 
明日香村にある「鬼の俎」は畑の中を通る遊歩道の脇の高台に、
「鬼の雪隠」は遊歩道を挟んだ高台の麓にあります。
元々は1つの古墳の石槨で、盛土が無くなって二分されてしまったものを
後世に石材として利用するために割り取ろうとした跡が多数残っているとか!?
横口式石槨の底石(長さ4.5m、幅2.7m、厚さ1m)を「鬼の俎」↓
花崗岩をくり抜いた蓋石(内幅1.5m、高さ1.3m)を「鬼の雪隠」↓と呼んでいます。
「風の森」と呼ばれた当地方に棲む鬼が通行人をとらえて食べたため
「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したと伝わるも、「俎」の隣に小さな底石が
あったことから、「鬼の俎板・雪隠」は双墓(ならびばか)と考えられているそうです。
双墓については『日本書紀』皇極元年(642)条にこうあります。
予め双墓を今来に造る。一つをば大陵といふ。大臣の墓とす。
一つをば小陵といふ。入鹿臣の墓とす
 
すると、「石宝殿古墳」北側にあるという石が気になります。
もし双墓なら、古墳時代終末期の有力支配者層の墓制が横口式石槨であったこととも
合致し、埋葬された北河内の豪族を考えるヒントになるでしょう。
「石宝殿古墳」に隣接する打上神社が元は高良神社だったことも見逃せません。
発掘調査で出土した須恵器などから築造時期が7世紀中頃と推定される当古墳と、
周辺にある古墳時代後期(6世紀)の「打上古墳群」「打上神社古墳群」との関連も
気になりますし、古墳の主が海人族だった可能性もあります。
 
そして、当地の現住所は寝屋川市打上元町ですが、
交野市私市の磐船神社とは直線で約3kmしか離れていません。
磐船神社とくればニギハヤヒですから物部氏の勢力範囲だったかも知れません。
いずれにしても自分の目で見たいと思い、急遽足を運ぶことに決めました。
 
ところが!! ホテルの朝食がバイキングのみでアレルギー対応がなく、
小麦が使われていそうなものを避けて選んだつもりだったのですけれど
コーヒーを飲んで大阪方面へ向かおうとしたら動けなくなってしまいました。
久々のアレルギー症状に戸惑いましたが、薬を飲んで安静にするほかありません。
1時間以上遅い出発となってしまったので、計画を変更することに。
(今日は家人が11時に家を出たため、私は日没までに帰ると約束していました)
 
当初、寝屋川公園駅から歩いて「石宝殿古墳」へ行き、
そこへタクシーを呼んで星田妙見宮まで行って、待機してもらえれば
そのまま最寄りの星田駅から新大阪へ向かう予定でした。
しかし1時間遅れなので、どちらかを諦めなくてはなりません。
駅から歩ける「石宝殿古墳」は何かのついでに行けそうな感じ?
ならば、私鉄を乗り継がず、枚方市駅からタクシーで星田妙見宮へ直行?
と考え、丹波橋から京阪本線特急で枚方市駅へ。

タクシー乗り場にたくさんタクシーが待機していたので、すぐ乗れました。
昨日の京都とはエライ違いです。
「星田の妙見さんへ行きたいのですが…」
「お客さん、星田は初めてですか?」
「はい、私市(きさいち)磐船神社へは行ったことがあるんですけど」
「それなら私が一緒に登って上げましょうか?」
「うわっ、それは助かります。地図を見たら、かなり階段が多いようだし」
「階段が嫌なら裏から入りますか?」
「それは私も調べましたが、駐車スペースがありませんよね?」
「いや大丈夫。私、星田生まれの星田育ちですから何とでもなります」
「心強い限りです。どうか宜しくお願い致します!」
昨日のイケズな運転手さんとは大違いでした。
 
かなり高い場所にある裏参道へ来ました。人の気配はありません。
しばらく平坦な道を歩き、いよいよ「犬散歩厳禁」の社地へ。
裏参道の方が近いとはいえ、しばらく登りました。
運転手さんも御高齢だったので、二人で休み休み登りました。
何々? 龍王社と書いてありますね。
その先もこんな道です。舗装路よりずっと楽しい!
「豊臣稲荷」って、どんな意味があるのでしょうね?
(豊川稲荷の紋に似ていますが?)
この手前から下りに入っています。片側が断崖絶壁なのはお約束ですね。
運転手さんのお蔭でここまで歩いて来れました。
ありがとうございます! 一人なら引き返していたかも?
この図で全景が把握できた気がします。
我々は右端の省略された真ん中あたりから登ったわけですね。
「下の駐車場から登ると2倍くらいかかりそうですね」と申し上げると
「とんでもない! これは縮尺がおかしいんですよ」とのことでした。
こちらは↓かなり誇張(階段が真っ縦!?)されていますが、ずいぶん印象が違いますね。
ともあれ、社殿下の階段まで来ました。
弘法大師創建 三光清岩正身の妙見」とは何ぞや?
ここはやはり当社のWebsiteから引用させていただきましょう。
 
当宮の縁起によりますと
平安時代嵯峨天皇弘仁年間(810~824)に、弘法大師が交野へ来られた折、
獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、佛眼仏母尊の秘法を唱えられると、
天上より七曜の星(北斗七星)が降り、3ヶ所に分かれて地上に落ちました。
現在もこの伝説は当地に残っており、星が地上に落ちた場所として、
一つは星田傍示川沿いの高岡山東の星の森、
もう一つが、この星田乾にある降星山光林寺境内、
そしてもう一つが当宮の御神体であると伝わっています。
後に弘法大師は当宮の地に赴き、大師自ら「三光清岩正身の妙見」と称され、
「北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳」、「神仏の宝宅諸天善神影向来会の名山」
としてお祀りされました。これらの由緒は平安時代貞観17年(875)
妙見山影向石縁起』並びに江戸時代に書かれた当宮の縁起書に記載されています。
こちらが当宮の御神体ですか。
星や隕石が墜ちてきたというような話、日本の各地にあると思うのですが、
いったい何の隠喩なのでしょうね?
 
訳がわからない場所でも人目が無ければ演奏修行。これが大事です。
ところで、この岩、大きさは違いますが、「くじら岩」に似てません?
古代人の巨石信仰の場だったということで納得してよいのでしょうか?
今日は雲が多くて、ちょっと残念な眺望でした。が、
ともかくここまで来られたことに満足しています。
京都から東京行きの新幹線に乗ろうか…との考えも過ぎりましたので。
来た道を、帰りは下りが多いので軽やかに戻りました。
星田出身の運転手さんに乗せていただけてラッキーでした。
「石宝殿古墳」へはギリギリ行けたかもしれませんが、
駅への道すら一方通行だったりして、万が一乗り遅れたら困るので
頑張る私としては珍しく、無理をしませんでした。
というか、他にも興味をひかれる場所があるので
また来ます!