(あちこちに彼岸花が咲いていました)
倭琴の旅を続ける中、行きたくてもなかなか行けない場所があります。
距離が遠くても飛行機でポンと行ける場所(九州)は頻度が高くなりますが、
私にとって行きたくても行きづらいのが山陰(11月にカニが解禁になったら食べに行きます)。
丹後宮津へは、東京から行き、帰京せずに四国へ帰るというプランで何度か出かけました。
しかし舞鶴方面へは行けてませんでした…。
この2社は必須ですが、一人で登って良しとの許可が下りないため今回はパス。
イカリヒメの名は丹後一宮たる籠(この)神社の系譜にも出てくるとか!?
『新撰姓氏録』に「水光(みひか)姫」と書かれた井光神を祭神とする
井光神社があると知り、2013年3月に行ってみました。
井戸の中から体が光っていて(水銀採掘を暗示?)尻尾がある人(犬戎を暗示?)が出てきたため
「何者か」と問うと「国津神で名は井光」と答えたとあります。
根拠は不明ながら、丹後の伊加里姫は大和葛木から吉野に移り、
水銀(辰砂)採掘に従事していたとの説もあるようです。
そして舞鶴には「大丹生」「浦入(浦丹生)」の地名があります。
金峰神社の鎮座地「女布」の「にょう」はどうでしょうか?
そんな水銀・辰砂・丹生の象徴たるイカリヒメを祭神とする
現在、地元では「かさみず」と呼ばれていました。
今日は日没後に行ったため、真っ暗で何も見えませんでした…。
吉野大峰山の鎮守「吉野八社明神」のうち、水銀にまつわる井光明神、
丹後の地に勧請されていたことは民族大移動の可能性も疑われます。
ここから金峰神社のある弥仙山山頂までは2.4kmと書いてありました。
靴は大丈夫なのですが、午前中から登らないと無理…とわかっていました。
それに西舞鶴駅に着いたのが16時前で、駅にタクシーがおらず
乗れたのが16時15分頃で、今日の日没が17時42分ということは
タクシーで予定の 5社をまわるのも無理な状況なのでした。
地図にパーキングのマークがある場所までやってきました。
おおお…金峰神社までを「改心の道」と名づけましたか…(私には改心は無理そう)。
ここからは鳥居も社殿も全く見えないため、運転手さんが探しに行ってくれました。
「少し登ると鳥居が見えますよ」
あとから追いかけて行くと、橋をどんどん渡っておられました。
ド迫力なんですけど…。「改心の道」が無理なら、苔むした狭い石段くらいは登らないと!?
はぁ~~まるで人の気配がありません。運転手さんも車に戻ったし…
急勾配で苔むした階段は滑って転んで一巻の終わりという風にしか見えません。
が、それは下りる段階になって考えようと決めて頑張りました。
集会所のような建物がありました。ここから社殿の位置まで上がるかどうか迷いました。
久しぶりの演奏修行だからかどうか、結構こわい空間でした。
金峰神社なら大峰修験なので女人禁制? どうやら弥仙山もそうだったみたいですね。
社殿まで上がると、右手に「弥仙山遥拝所」がありました。では、ここで。
手すりとか滅多に使わない私ですが、ここは手すりにしがみつくように慎重に下りました。
タクシーがこれほど頼もしく、有り難く見えたことはありません。
ともかく、来た道を引き返して峠を越すしかない高低差のある一本道です。
地元では「蛇神様(じゃがみさん)」と呼ばれ、当社から高野川を3kmほど遡った上流に
「雨引神社奥の院」があり、さらにその奥に伝説の「蛇が池」があるとのことです。
こちらは社殿に向かって左側。まだ川幅が狭いのですが、下流に行くとかなり広がります。
右手が上流となる高野川。こんなに細いのに、以前増水した際に、この近所で
濁流に飲み込まれた男性が海まで流されたのち見つかったことがあったそうです。
今では上流の「雨引神社奥の院」も「蛇の池」も知る人がなく、地図にすら載っていません。
珍しく興味深い伝承をもつ雨引神社でしたが、当社が「天水分(あめのみくまり)神」、
弥仙山が「国水分(くにのみくまり)神」と区別されていたのかどうかすらわかりませんでした。
直線で19km離れた「元伊勢」籠(この)神社に対抗するかのように
「坦波国 吉佐宮」と名乗っているようなのですが!?
(籠神社って、ミクマリ→ミコモリ→コモリ→コノの可能性ありません?
籠は古来、コノ or コモリと訓まれ、コモリノ社の真ん中が脱落してコノ社と称したかと?)
鳥居の扁額には「総社笶原魚居匏宮 」と書かれています。
一般的な地名の「よさ」について、入江のある地域での「よせあみ(寄網)」漁法が
「よさみ」→「よさ」へ転訛したと説明されても、当社は元々、背後の愛宕山(笶原山)の
頂上にあったため、寄せ網とはあまり関係なさそうな気もします。
「よさ」につき、私は神楽歌《篠波(さざなみ)》の歌詞にヒントを求めています。
「さざなみや 志賀の唐崎や 御稲(みしね)搗(つ)く 女(おみな)のよささや」にあるように
良い姿、良い行ない、豊かな場所などを暗示する言葉ではないのかと。
また「匏(よさ)宮」の匏はふくべ=ひょうたん。
ここから私が何を妄想しているかは明白ですね。
その氏族が各拠点を良い場所「与謝(よさ)野」「吉(よし)野」と称していたとしたら?
7世紀頃の丹波国「与射評」にも含まれていなかったようです。
呆れたことには、この延喜式内社ヤハラ神社に比定される笶原神社を
運転手さんはじめ地元の方々は「エバラ神社」と呼んでおられました。
「笶」の字を「笑」と勘違いした方が殆どだというのが地元の放送局の見解です。
その笶原神社から舞鶴港西岸を601号線で北上してゆくと
江戸時代以前は「伊吹大明神」と称されていたと言うのです。
かの伊吹山からの勧請が疑われる場所とあらば見に行かねば。
う~~む、すでに17時を過ぎているため日没との戦いですね。
近づくと少し明るく撮れました。奥にまわって覆屋のある本殿も撮りました。
由緒書のようなものが一切なく、伊吹神との関連は全くわからない形になっていますが、
私は文献を確認して演奏修行に来ました。
ちょうど、この時が今日の日没でした。
この青井の地に、なぜ伊吹神が? と御近所の奥様が仰います。
「つい先日もお祭りがあったけど、ここは結城神社で、伊吹なんて一度も聞いたことがない」
「では、結城神社の祭神は? お祭りは何のためにやっているのですか?」
「そりゃあなた、昔からずっとやってきてるから…。祭神って何のことですか?」
「昔と仰いますが、結城神社は明治以降の呼称で、それ以前はイブキ神でしたけど…」
いわゆる堂々巡りですね…。
話し終えると、格段に暗くなっていました。
地元の方がご存知ないと仰るので、文献に頼りましょう。
『丹後風土記残欠』に「伊吹戸(イブキド・イフキベ)社」
『丹哥府志』に「青井村 膽吹(イブキ)大明神」
『加佐郡旧語集』に「胆吹(イブキ)明神 青井村」
などの記述があります。「イフキ」の漢字についてはこちら↓
青井の結城神社に関しては「イフき」→「ユフき」の転訛との説がありました。
「言う」も、「イフ」の表記から「ユウ」の発音になってますし。
なお、地元の方が、琵琶湖の向こうじゃ遠過ぎて縁が薄いと仰る点については、
人が移動すれば先祖を祀った神社も移動します。伊吹神を奉斎するのは当たり前なんです。
久美浜町の海に近い場所に何社ものイブキ神社があります。
一例を挙げると、久美浜町油池(ゆうけ)の意布伎神社の祭神は油池大明神。
郷名は好字を撰び二字と為せるより油池となせしなり」とありました。
久美浜町三分小字上地の意布伎神社は元意布伎村(今の油池村)にあり…
ということで、油池村から意布伎神社を勧請した場合もあったようです。
伊吹→結城、意布伎→油池の転訛には驚きましたが、そもそも伊吹・意布伎・
伊富貴・伊福などと記される「イブキ」のイは接頭語と言われています。
フキ・フクは、鉱石を溶かして金属を分離させ精錬するといった意味で使われ、
「鉄を吹く」「銅を吹く」などという表現があるように鍛冶集団や金属工業の地を暗示。
これで、丹後国に伊吹神が奉斎されていた理由が納得できました。
上の地図、西舞鶴駅の東には「福来(ふき)」の地名もありました。
福来の善照寺に「福来の始まりは慶長10年(1605)に行永村より分村したるものなり」
との記録があるそうです。村の中を「いもじ道」が通り、「いもじ橋」があることから
近くに鋳物師の集落があったのではないかと言われ、「カヂヤ前」の小字もあります。
17世紀初頭、大道(だいどう)と称する刀工鍛冶集団(ダイダラ?)が居たとされ、
京極氏に従って宮津へ移住したと伝えられているそうです。
山で日没を迎えるのが怖かったので、先に弥仙山へ行ってから北上し、
日没後に湾沿いの道を走ったのですが、何とか湾内を写すことができました。
こののち亀岡駅まで戻り、ちょっとした不幸(食事できる場所がない!?)に見舞われました。