八幡大菩薩のお告げによって天慶2年12月19日(940年1月30日)に即位するも、僅か
1956年に「沓掛町」と「富里村」が「猿島町」になった上、
ややこしさ!? 時代によって「猿島」とされる場所にズレがあるのでしょうか?
風の強い今日、以前からマークしておいた将門さまゆかりの場所を目指すことに。
はるか彼方に雲に覆われた筑波山が見えています。
とくに何かがあるわけじゃないけれど、広々とした香取海を走るだけで清々します。
筑波山とは逆の方角を見ると、雲間から陽が射してきました。
10分前より雲が薄くなった感じ。
以前、常総市へ行った時にもここで小貝川(蚕養川)を渡りました。
今日は、この時よりも北へ行きます。
筑波山に向かっているわけじゃないのに、やはり目印にしてしまいますね。
石下橋を渡ってますが、渡ったら右折し、対岸の川沿いを走るようです。
前回は鬼怒川沿いに人丸神社。今回は香取大明神です。
ありました!! 「平將門公史跡」です。
どこまで正確なのかはわかりませんが、鬼怒川の水運を支配するために
川沿いに神社を置いたのでしょう。社殿に向かって右手に筑波山が見えます。
愛車キャノピーがすごく小さく見えるほどの巨木がありまして、
この画像ですと、筑波山は左端の木に隠れています。
社殿の裏には夥しい数の石祠が並んでいました。
古来、水利権を争って支配者が変わっていったのでしょう。
水にせよ、砂鉄にせよ、辰砂にせよ、資源の無い所に人は集まりません。
ここから、同じく将門ゆかりの「佛性寺」まで北上します。
かつての将門の領地で『延喜式』にも記載された「栗栖院 常羽御厩(いくはのみむやま)」は
平良兼の軍勢によって承平7年(937)8月に焼き払われました。のちに「栗栖院」のみが
創建給はり、奈良朝に係る。」とあるそうです。
その「栗栖院 常羽御厩」のヒントを得ようと足を運びましたが、
空振りに終わってしまいました。そこで地図を見ると、周囲に古墳が
幾つかあったので南下してみると、古墳の手前が産業廃棄物置き場でした。
画像右手の奥に古墳があるはずですが、ここで断念。
ふと左手を見ると、小さな祠がありました。地図に浅間神社とあります。
木製の祠は新しそうに見えますが、古くから石祠くらいはあったのかもしれません。
浅間神社は富士山を遥拝する形で各地にありますが、当地は住所が「栗山」で
小高い場所にあるし、角度的には富士見の丘と言えそうです。
登ってみなかったので、実際に富士山が見えるかどうかはわかりません。
帰宅後、「栗栖院 常羽御厩」を検索してみました。
この道を北上して「佛性寺」へ行きましたが、気づきませんでした。
ここより南に直線道路で約600m。地名は同じく「馬場」でした。
突然出かけたため、地図のチェックを怠っていました。
走っていて目に留まる時もありますが、草むらの中で気づかず、残念でした。
それでも一応この道路を走ったし、↓の画像を見つけたので良しとします。
地名はほんとうに大事ですね…。
GoogleMapの「常羽御厨兵馬調練の馬場跡」は「厩(うまや)」の意味を成してませんけど?
「栗山」から下りる途中で日没寸前の太陽を撮りました。
「猿島郵便局」が並ぶ場所に着きますが、現住所は「沓掛」です。
その地名を負う沓掛香取神社に立ち寄ろうとしています。
ちょうど日没時間の17:50に着きました。
「猿島之鎮」の扁額がありました。
何より気になったのが、画像下右寄りにある「さしま神社」の文字でした。
が、いくら地図を見ても「猿島神社」を見つけられません。
時間も遅かったので、謎を抱えたまま帰途に就きました。
鳥居を出ると、右上に月が薄く小さく見えていました。
今日は思い立って家を出たのが15時過ぎだったので短い旅でしたが、
久しぶりに特段の目的もなくバイクで走れて楽しかったです。
この時すでに18時。気温は2~3℃。
暗い道をひたすら走って、20時前に帰宅。
今日は「花粉が少ない」日だったので急遽、外出を決めましたが、
明日は「とても多い」そうです。また花粉の少ない日に出かけます。
ただ走っていただけなので内容が薄くてすみません。