2/28に行く予定だった2社を端折って帰宅してしまったので
もう行く機会はないだろうと思っていたところ、
冬台風のような嵐が15時過ぎに収まってきたので3/1に出掛けました。
片道1時間のコースです。
最初に目指したのは9割以上が鬼怒川と小貝川に挟まれた地域にある
つくばみらい市小絹(こきぬ)です。
小貝川を渡れば小絹という橋の手前が鬼長(おにをさ)です。
数年前、偶然通りかかって蜘蛛窟みたい…と思い、立ち寄った雷神社。
その時どこへ行こうとしていたのかすら忘れてしまいましたが、
周囲の木々が伐採されて道路から丸見えの社殿に見覚えがありました。
「鬼長1」という住所は衝撃的!! でした。
朝廷がアイヌ民族を「かだましき鬼」と呼んでいたためです。
社殿の扁額は「雷神社」、鳥居の扁額は「別雷神社」でした。
小貝川を渡り、鬼怒川の手前の玉台橋東まで行って北上すると
ナビの指示通りに走っていたら私有地に迷い込んでしまいました。
これは凄い!! 山を削ってたら何かが出土しちゃったとか?
非常に興味深い光景ながら、全く訳がわかりません。
あとで↑の画像の左側に見えているこんもりへ行きました。
細い土手で撮影していたら、下の道を犬の散歩に来た高校生らしき子が
歩いていたので「浅間神社はどこですか~?」と訊き、教えて貰いました。
おおお…ありました。高さ約5mの貝塚の上に建っているんですね。
さっき見えていたこんもりによって日が射し込みにくくなってます。
どうしてこんな形になってしまったのかわからない丘陵が見えました。
浅間神社から下りると鬼怒川寄りに一本の道がありました。
この道をゆくとさっき迷い込んだ土手へあがれます(以下↓2枚目の画像が出口)。
明らかに小貝(蚕飼)川の「コ」と鬼怒(絹)川の「キヌ」を合体させたと
思われる「小絹」の住所表示の変遷を調べると新しい名称でした。
明治2年(1869) 葛飾県相馬郡新宿(にひじゅく)村
明治4年(1871) 印旛県相馬郡新宿村
明治6年(1873) 千葉県相馬郡新宿村
明治8年(1875) 茨城県相馬郡新宿村
明治11年(1878) 北相馬郡新宿村
明治22年(1889) 北相馬郡小絹村大字新宿
昭和30年(1955) 筑波郡谷和原村大字小絹
平成18年(2006) つくばみらい市小絹
明治4年(1871) 印旛県相馬郡新宿村
明治6年(1873) 千葉県相馬郡新宿村
明治8年(1875) 茨城県相馬郡新宿村
明治11年(1878) 北相馬郡新宿村
明治22年(1889) 北相馬郡小絹村大字新宿
昭和30年(1955) 筑波郡谷和原村大字小絹
平成18年(2006) つくばみらい市小絹
玉台橋東へ戻って鬼怒川を渡ると玉台橋西。
その真北に日王神社があるはずなのですが、そこはもう常総市です。
直線で1.8kmしかありません。
やっぱり一々旧地名を調べないと…!
鬼怒川を渡って北上し始めると、筑波山が見えました。
こちら↓さっき迷い込んだ私有地らしき場所の竹。ビッシリ生えてました!!
鬼怒川沿いの道から農道に入り、クネクネと北上します。
入り口が一ヶ所しかなく簡単には辿り着けないと書かれていた日王神社です。
iPadのナビに頼ると周囲をグルグルまわらせられるため、直感に頼ったら
地図も見ずに一発でのぼれました~!
もう一ヶ所の登り口はたしかに徒歩でないと難しそうです。
なぜ足を運んだのかというと、祭神がアマテラスではなくオホヒルメと
書かれてあったので、きっと古い神社だろうと思ったからです。
由緒書には「大同2年(807)鎮座」とありましたが、あたかも
古代祭祀の場であったと考えるのが自然かと思いました。
それに大同2年の創建ならアマテラスを祀るのでは?
日王神社はその名の通り東を遥拝する日輪信仰のようでした。
演奏修業していたら近所の方があがってこられました。
ちょうど一曲終わったので
「すみません、氏子の皆さんにお声掛けしないまま歌ってました…
もう一曲やってもいいですか?」
「大丈夫ですよ、私は散歩をしているだけだから。どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
と言って《神擧》に入りました。
が、前日あれほどピタッと嵌っていたのに、要らぬ声楽家根性を出して(?!)
息を送り過ぎ、てんこ盛りの演奏になってしまいました。
ゴージャスな古代歌謡とは…お笑い種です。
猛省しつつ帰途に就いたら17時40分を過ぎていました。
3/1 17:44 西の空です。
日王神社の方を振り返るとお月さま! 17:46
鬼怒川沿いで写真を撮った場所まで戻ってきました。17:50
強風に煽られて反対車線にはみ出しながら2時間以上走った御褒美はこちら。
3/1の最後に撮った鬼怒川に映る月でした。
2018年3月2日(金) 9時51分が満月とのことですから、満月16時間前の月。