「北海道での子供時代、よく耳にした音楽に、青森から流れて来た芸人が
津軽三味線を弾きながら歌う民謡やいわゆる新内流しがありました。
歌や踊りが私の音楽的原点と言えるかもしれません」
伊福部昭先生からはこうしたお話をよくお聞きしていましたが、
こと自作となると、おいそれとは種明かしをして下さいません。
むしろ常に、簡単に核心に迫れないようミスリードされていた!?
との印象を強くもっています。
「伊福部先生がこう仰ったので間違いない」という言葉を
聞くと、私は眉に唾をつけて構えることにしています。
と言いますのも、伊福部先生は人様から質問を受けた際、
先ず「そうですねぇ…」「そうでしたかねぇ…」と仰います。
先生がハナから否定されるのを私は聞いたことがありません。
ただ、突っ込んだ質問がなされずに、その話題をスルーして
別の話題に移られた場合、質問された方が、否定されなかった
ことを肯定されたと受け取って話されることを恐れている訳です。
伊福部先生からは、度々「何を指して日本的と言うのか?」と
質問されましたが、「日本的」という言葉一つとってもその説明は
難しく、常に「語源」を意識しつつ考えるよう言われていました。
また「日本的演奏法」について、たとえば山田耕筰が
自作品の演奏に関して、江戸期の邦楽を分析したとして、
「ドシ」と一音だけ下がったら拍に関係なく下がった音を強く演奏し、
「ドシラ」と連続して下がったらレガートを意識するよう指示していたのに対し、
伊福部先生は邦楽はもちろん、雅楽の形式までをも分析しておられました。
自作品の演奏について、一々細かく注意するタイプの作曲家とはまるで
違いましたが、連打の場合、同じ音型を繰り返す場合などの決まり事は
御指導いただきましたので、すべて各作品の演奏者にお伝えしました。
さて『ピアノ組曲』ですが、
自筆譜には、日本語だけでなく、英語・イタリア語・フランス語を
駆使した「解題」とも言えそうな副題がいくつも残されていました。
日本語題『ピアノ組曲』には「1934年4月17日完成」のサインがある
『SUITE JAPONAISE』と、「1938年10月30日 Revised」の朱書きがある
『Piano Suite』のタイトル表記がありました。
この組曲は以下の4曲で構成されています。
①『BON-ODORI』
自筆タイトル「Danse nocturne du "Festival BON"」(1934.5.6)
→出版譜タイトル「盆踊り BON ODORI Nocturnal dance of the Bon Festival」(1936)
●『盆踊り』の初出『COLLECTION ALEXANDRE TCHEREPNINE』No.26に初演データの自筆記載あり。

●初出ピース譜No.26のp.2『盆踊り』のタイトル上に「Hommage à George Copeland」の献辞あり。

②『TANABATA』
自筆タイトル「Festival TANABATA」(1934.5.6)
→出版譜タイトル「七夕 TANABATA "Fête of Vega"」(1939.7.27)
●初出『COLLECTION ALEXANDRE TCHEREPNINE』No.27, 28, 29(龍吟社刊)表紙。

●残り3曲の初出No.27, 28, 29には「Hommage à George Copeland」の献辞なし。
③『NAGASHI』
自筆タイトル「NAGASHI ménétrier aux SAMI et Chant」(1934.5.6)
→改訂版自筆タイトル「演伶 NAGASHI "Profane Minstrel"」(1938 ?)
→出版譜タイトル「演伶 NAGASHI Profane Minstrel」(1939.7.27)

④『NEBUTA』
自筆タイトル「Danse de la Nuit d'été de le "TUGARU"」(1934.4.17)
→改訂版自筆タイトル「佞武多 NEBUTA 」(1938.10.30)
→出版譜タイトル「佞武多 NEBUTA Festal Ballad」(1939.7.27)
↓別稿

"Exorcise Dance in the Summer-night of TUGARU"
津軽の夏の夜に行なわれてきた悪魔祓いの踊りという括りは
表題の『NEBUTA』のみならず、組曲を構成する全ての曲のテーマのようです。
……………
『BON-ODORI』
日本で盂蘭盆が公に行なわれた記録は606年。733年には
宮中恒例の行事としてお盆が行なわれるようになったそうです。
盆踊りを「悪魔祓いの踊り」の一つとして作曲したこととも繋がります。
「盆」について折口信夫は、
世間では、死んだ聖霊を迎へて祭るものであると言ふて居るが、古代に於て、
死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、謂はゞ魂を切り替へる時期であつた。
即、生魂・死霊の区別なく取扱ふて、魂の入れ替へをしたのであつた。生きた魂を
取扱ふ生きみたまの祭りと、死霊を扱ふ死にみたまの祭りとの二つが、盆の祭りなのだ。
と『盆踊りの話』の冒頭に書き、こう続けています。
七夕の祭りと、盆の祭りとは、区別がない。時期から言ふても、七夕が済めば、
すぐ死霊の来る盆の前の生魂の祭りである。現今の人々は、魂祭りと言へば、
すぐさま陰惨な空気を考へる様であるが、吾々の国の古風では、此は、
陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であつた。
『TANABATA』
作曲者はなぜ出版譜に "Fête of Vega" と書いたのでしょうか?
現代の日本人の多くは、七夕と言うと、1年に1度、7月7日に会うと言われる
彦星(アルタイル)と織姫(こと座のベガ)をイメージすると思うのに、ベガだけの饗宴とは?
七夕が「たなばた」と呼ばれるようになったと言い、折口信夫も「たなばた」という
言葉は宛て字通り「棚機」であって、棚は天(アメノ)湯河板挙(ユカハタナ)や棚橋の棚で、
物からかけ出した作りのことと説明した上で、この棚に居て、ハタ織る少女が
積極的に結びつけようとする動きがみられたことを指摘しています。
わが国では棚機祭りに禊ぎを行なう処もあって、祓と棚機が
不離一体の関係だった点に、伊福部昭も拘ったのでしょう。
『七夕』と題していても、織姫と彦星が年に一度(7月7日)天の川を渡って会うという
中国の話じゃなく、禊祓に関わる日本の棚機女(Fête of Vega)をテーマにしてますよと。

1915年に東京で撮られた七夕祭りの写真にも「織工の祭り」とありました。
同じ1915年に青森で撮られた七夕祭りは「ネブタ」を連想させませんか?

2枚の古い七夕祭りの写真を見た時、作曲家の遊び心に触れたような気がしました。
伊福部先生は音を書かれている時に色や形に特別なこだわりを見せることがあり、
『七夕』の右手の動きが七夕祭りの山車の形状を想起させるものだったため。
これが、札幌時代に伊福部先生が所属していた絵画サークルに佐藤忠良さんがおられ、
その才能に驚いて「自分は音で絵を描こう」と思われたということなのでしょうか。

『NAGASHI』
この曲も自筆譜にあった「ménétrier aux SAMI et Chant」が引っ掛かります。
「SAMI et Chant」とは伊福部少年が耳にしていた津軽三味線と歌でしょう。
北海道の「ながし」の芸人は青森からやってきた人が多かったそうです。
「流し」という営業方法は文化年間(1804‐18)に始まったとの説がありますが、
東北の夏祭りにおける「ながし」は「眠(ねぶ)り流し」という習俗を指します。
作曲者はこれらを掛けてタイトルを『演伶(ながし)』にしたのかもしれません。
「眠り流し」は七夕行事の一つで、秋の収穫前に労働の妨げとなる睡魔を
追い払うため、人形などの形代(かたしろ)に睡魔を委ね、海や川に流すそうです。
「ねぼけ流し」「ねむ流し」「ねんぷり流し」などとも呼ばれ、全国的に行なわれて
いましたが、東北に集中的に残り、秋田「竿燈」、青森「ネブタ」、仙台「七夕」が
東北の三大夏祭りとなって観光客を集めています。
秋田「竿燈」は1890年頃まで「ねぶり流し」と呼ばれ、江戸時代にはすでに長い竿を
十文字に構え、数多くの灯火をつけて太鼓を打ちつつ練り歩く「竿燈」の形になっており、
青森では「眠たい(ねぶたい)」の方言が訛って「ネブタ」になったとの説が有力です。
言葉の成り立ちや語源意識を重視する伊福部昭ゆえ、「ながし」を単純に新内流しを
想起させようとして書いたわけではないことは明白です。新内流しをイメージした曲と
とらえた場合、悪魔祓いの花火や爆竹の音をどう扱うのかが問題となるでしょう。

見事に花火が炸裂してますね。
『NEBUTA』
東北の三大夏祭りのうち「七夕」「竿燈」ときて、いよいよ「ネブタ」です。
江戸時代の「ネブタ」の規模や内容は測りかねますが、1933年~34年にかけて
出版された『青森県画譜』に1928年頃の「ネブタ」の様子が描かれていました。

1932年に大鰐でネプタ祭りを見た作曲者の言葉通り、「ネブタ」が小さいですね。

1928年当時すでに車で曳くものもあったが、大半は1人で「ネブタ」を担ぎ上げ、
4人が四方から支える形だったと説明されていました。
「子供のネブタいろいろ」では金魚ネブタに目をひかれました。

金魚ネブタは、津軽藩が長期にわたり藩の保護のもとに飼育し、改良を重ねた
金魚を他藩との交易に充てて藩財政の一助にしようと計画した「津軽錦」という
品種を一目見てみたいという当時の人々の願望から生まれたと言われています。

結局、金魚「津軽錦」は藩の産業としては成功しなかったのですが、風水の本場
中国では金魚は金運を象徴し、金魚に多い赤色が邪気を払い、幸運を呼び込むと
されていたことから、縁起物として金魚ネブタの形で足跡を残したのでしょう。

1928年の「ネブタ」図には、車で曳くタイプと担ぎ上げるタイプが混在しており、
さまざまな「ネブタ」が細い道を練り歩く様が、ピアノ曲『佞武多 NEBUTA』で
同じモティーフを延々と繰り返す譜面(ふづら)と重なりました。

「戦後に巨大化した今の青森のネブタをイメージして弾かれる方が多いのですが、
私が学生時代に見たのは大鰐のネプタ(弘前系と青森系で発音が異なります)で、
規模がまるで違うんです」との作曲者の言葉通りの絵面と譜面でした!?
当時のねぶた師の長老 北川啓三さんは
「昔はどこの小路を見ても、ねぶたがゆれていたもんだス。
言いかえればどんな小路っコへども入って行けだ。町の隅っコから隅っコまで
祭り気分で、今のように特定のコースを時間まで決められて、
見せるためにやるんではなくて、真に楽しかったスナ」と語っておられます。
作曲者にとっての「日本」がどのようなものだったのかが重要です。
それを掘り下げようとして我々が現在の物差しで測ったとしても
お門違いになりかねないことを肝に銘じておかなくてはなりません。
今回、伊福部昭先生のお言葉を思い出しつつ
この作品を見直したことで、再度、演奏家としての在り方
生き方を教えて頂いた気がして身の引き締まる思いが致しました。
盆踊りと東北三大夏祭りという大きなテーマを
長大な四枚の絵巻物としてまとめ上げた伊福部作品の原点とも
言える『SUITE JAPONAISE』に触れ、そのエッセンスの妙と
のちにオーケストラ作品にいかんなく発揮されることになる
類まれな構築力に脱帽すると同時に、
この作品に描かれた世界を表現できる技量をそなえた
ピアニストの存在を頼もしく思い、歴史的名演に感謝いたします。
なお、『ピアノ組曲』は、アレクサンドル・チェレプニンが来日して
初めて作曲のレッスンを受けた1936年8月(BLUFF-HOTEL/YOKOHAMA)以降、
ヴェネツィア国際現代音楽祭への応募を勧められて出品。
1938年に同音楽祭で入選しています。
1936年に第1曲『盆踊り』を初演したチェレプニンは同曲を
『COLLECTION ALEXANDRE TCHEREPNINE』No.26として出版。
1939年には残り3曲『七夕』『演伶』『佞武多』が、同じく
『COLLECTION ALEXANDRE TCHEREPNINE』のNo.27, 28, 29として
出版されることになり、作曲者に推敲の時間が与えられました。
このように破格の扱いを受けた『ピアノ組曲』ですが、
日本には“チェレプニン”が居ませんでした。
そのため、二十代前半に国際舞台で脚光を浴びた伊福部昭は
極東の島国日本の作曲界では正当に評価されないまま
長年にわたり不遇をかこつことになったのです。