藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

恭仁京~笠置山

恥ずかしながら、この年まで恭仁京(くにきやう/くにのみやこ)を知りませんでした。
こんなこと書いたら笑われますね…。
学校で教えてくれましたか? まったく記憶にありませんが。
地図を見ていて偶然目にしたので足を運ぶことに。
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恭仁京大極殿址」とありますが、
恭仁京天平15年(743)末には造営中止となり、
都としては完成していないそうです。
正式名称は「大養徳恭仁大宮(おほやまとくにのおほみや)」。
天平12年(740)12月15日、聖武天皇の勅命により平城京から遷都したと知り
納得。聖武天皇天武天皇の精神を継ごうとしたに違いありません。
都は一処ではなく二処、三処に作れとの教えに従ったのでしょう。
 
いったん恭仁京から北東に直線で26km離れた紫香楽宮の造営を命じた
聖武天皇は、天平16年(744)2月に難波京への遷都を決め、
天平17年(745)5月には都を平城京に戻す勅を下しています。
 
信濃の戸隠を候補地として測量に行かせた天武天皇にもビックリですが、
聖武天皇はそれ以上?! 凡人には量り知れない頭脳をお持ちだったのでしょう。 
 
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振り向くと、国分寺の金堂跡に「山城國分寺阯」の碑がありました。
が、なぜか「址」と「阯」を使い分けてる!?
 
すぐ近くに恭仁神社があったので行ってみることに。
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のどかな集落ですね。この右手が恭仁神社の参道です。
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道幅が狭いため、タクシーはここで待機。
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やっと一ノ鳥居ですから、社殿との往復に予想以上の時間を要しそうです。
実は加茂駅からのタクシーが予約不可(!!)で、運悪く
駅で30分以上待たされたため時間がおしています。
しかも、ここから笠置山まで行く予定なので焦ってきました。
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目立たない場所に由緒が!? 何ですって?
天神社と御霊神社を合祀して、昭和40年に恭仁神社に改称…って?!
わざわざ立ち寄る意味があったのでしょうか。
いや、しかし、ここまで来たんですから。
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階段の先に見えてきました。
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磐境とか、祠とか、いろいろ並んでいますね。
おそらく一番新しいのが↓こちら?
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能舞台竣工記念」、昭和56年ですか。
たしか、社殿は奈良の春日大社から移したと書かれていましたよね?
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おおお…ここだけが別世界!?
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黒字に白の文様がおしゃれですね!
駆け足でまわったので見落としたものが沢山あると思います。
残念ですが、いずれまた来るチャンスもあろうかと…。
 
ここからは脇目もふらず一路笠置山へ。
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古いお寺かと思っていたら、何だか新しいんですね…。
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えええ~?! 明治には無住になっていた?
 
3,000余の兵で75,000とも言われる幕府側の兵と戦った場所ということで
来てみたのですが、そのために、幕府側の陶山義高らが
元弘元年(1331)9月29日に山に火を放ったわけですね。
笠置寺は炎上! 弥勒磨崖仏も火を浴びて石の表面が剥離したそうです。
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その後、笠置寺は暦応2年(1339)に再興されるも、文和4年(1355)に再び焼失。
永徳元年(1381)に再興された本堂も再興と焼失を繰り返したそうです。
これでは荒廃してゆくのもわかります。
 
ただ私にとって笠置寺東大寺に「お水取り」を伝えた寺として重要でした。
東大寺の「お水取り」の創始者とされる実忠にかかわる伝承は、
笠置山の龍穴の奥へと歩いていった実忠が兜率天に至り、その内院
四十九院をめぐった時に行なわれていた行法を人間界に伝えたというもの。
だから笠置山正月堂東大寺二月堂があるわけです。
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この建物は旧 正月堂(現 大師堂)で↑裏に笠置山独特の岩がゴロゴロありました。
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私が撮ったのはここまでですが、↓突き当りが天の磐船ではないでしょうか?
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以下は同行者が撮ってくれました。↓天の磐船。
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もう本当に時間が無かったので、私は演奏修行していました。
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笠置山には磐船のほか巨磐がいっぱいあるので、また出直します!
 
その後、吉野へ移動し、5時間の貸切で奥吉野をまわりながらupしています。