本日も晴天なり!
ここに後村上天皇の御陵があるそうなのですが?
うわぁ…きれいな南天ですね。
おお~、ピンクの椿です。
境内をひたすら東に歩きます。
やっと御陵への参道に到達しました。
220段あると言われた階段を上ったら?!
おおお、まさしく御陵です。ずいぶん敷地が広いんですね~。
ふたたび国宝の金堂前を通ってタクシーに戻りました。
突然この鳥居が見えたので度肝を抜かれました。帰りには見えません。
腕の良い運転手さんで、急坂をここまで上がってくれました。
階段を上ると拝殿。正面奥の階段は上れないので左手にまわりました。
本殿がありますね。
「鬼住神社」手前に↑案内板がありました。
内容はもちろん眉にツバをつけて読みます。
三男 正儀はもはや北朝を武力で打倒することは無理…と考えていました。
吉野へ逃亡後、組織的な軍事力を失ってしまいます。
融和派とされる弟の後亀山天皇を即位させて再び融和路線に傾きました。
表舞台から消えた長慶天皇がいつどこで亡くなられたかは分かっていません。
社殿の奥の山上に御神体があるとの説もあり、よくわからないまま下りました。
勿論どこにも天皇の文字は無く、階段途中の乳銀杏が長い歴史を伝えていました。
階段を下りたら、↓小さな看板が目にとまりました。
「旧 鬼住村」ですって?! 本殿の隣に「鬼住神社」がありましたよね?
それで鳥居の礎石がここに遷されていたんですね。
かつてヤマト王権は先住民を「鬼」と呼びました。
もちろん現在つかわれる「悪党」とは意味が違います。
ここまで来たら、そんな「悪党」の本拠地へ行かなくては!!
あれ? 南木神社って何です?
(わかりました! 「楠」の偏と旁を逆にしたんだ!!)
横を見たら階段がありました。
「富田林方面の駅までお願いします」と運転手さんに申し上げたら
「この辺りじゃ瀧谷不動尊が有名ですよ」と仰るので行ってみたら、これが瀧?
ホースからチョロチョロ出てる程度の水ではトホホ…なので囲いをつけたのかな?
一応、社殿も見てきました。
このまま帰るのではあまりに尻切れトンボなので地図で駅の周辺を見ていたら
PL学園の南に読めない神社がありました! 読めない神社へは行くのが鉄則!?
おおぉ…ルビが無い!! しかも「眞名井ヶ原」とは…!?
せっかく来たので入ってみましょう。
ここまで来たら上がるほかありません…。本殿の背後に4基の古墳があるそうです。
昔は渡来人の任那の大国吉士(キシ)が住んでいたんですって!?
だから近くに「喜志」駅があるんですね。
でも私が知りたいのはそれ以前にどんな人々が住んでいたか…です。
ブリタニカによれば
「日本は半島に有利な立場を築くため、370年前後に大軍を送って
半島南部の諸小国群をその支配に繰入れ、いわゆる任那を成立させた」
任那は分割され、やがて欽明23年(562)に滅亡した」
そうですが、朝鮮の学界では「任那日本府」の実在は否定されています。
ずいぶん厳重に囲まれてるんですね。
ちょっと失礼して本殿の左側だけ撮ってビックリ!? ここにも南木神社?
わかりました。
当社を「下水分社」として崇敬していたそうです。