藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

後村上天皇陵~"悪党"の地へ

南朝もわからないのに後南朝とはハードルが高すぎますが、行ってみました。
夏の金剛山行きでバスで通り過ぎたのち気になっていた観心寺川上神社へ。
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本日も晴天なり!
ここに後村上天皇の御陵があるそうなのですが?
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うわぁ…きれいな南天ですね。
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おお~、ピンクの椿です。
更に進むと、南北朝時代の 「建掛塔」(重要文化財)
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境内をひたすら東に歩きます。
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やっと御陵への参道に到達しました。
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220段あると言われた階段を上ったら?!
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おおお、まさしく御陵です。ずいぶん敷地が広いんですね~。
ふたたび国宝の金堂前を通ってタクシーに戻りました。
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次に向かったのは長慶天皇墓所との伝承がある川上神社です。
いえ、長慶天皇墓所は全国各地に27ヶ所もあり、私も幾つか行ってます。
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右端の細い道をバスで「千早赤阪村金剛山ロープウェイ」乗り場に向かっていたら
突然この鳥居が見えたので度肝を抜かれました。帰りには見えません。
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腕の良い運転手さんで、急坂をここまで上がってくれました。
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階段を上ると拝殿。正面奥の階段は上れないので左手にまわりました。
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本殿がありますね。
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鬼住神社」手前に↑案内板がありました。
内容はもちろん眉にツバをつけて読みます。
 
北朝に対して比較的穏健な姿勢をとっていた後村上天皇が亡くなると、
強硬派の長男(のちの)長慶天皇が即位しますが、当時の南朝は指導的立場にあった
北畠親房が亡くなり、凋落の一途を辿るばかり。軍事的支柱だった楠木正成
三男 正儀はもはや北朝を武力で打倒することは無理…と考えていました。
そこで強硬派を排除して南朝の存続をはかろうと考えた楠木正儀北朝へ投降。
長慶天皇を中心とした強硬派は、楠木正儀率いる北朝方に攻められて
吉野へ逃亡後、組織的な軍事力を失ってしまいます。
その後、いったん北朝方となった楠木正儀南朝に帰参した時も受け入れざるを
得ないほど弱体化した南朝は、強硬派の長慶天皇を退位させたのち、
融和派とされる弟の後亀山天皇を即位させて再び融和路線に傾きました。
 
表舞台から消えた長慶天皇がいつどこで亡くなられたかは分かっていません。
いつの頃からか、川上神社の石塚が長慶天皇墓所と噂されていたようです。
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社殿の奥の山上に御神体があるとの説もあり、よくわからないまま下りました。
勿論どこにも天皇の文字は無く、階段途中の乳銀杏が長い歴史を伝えていました。
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階段を下りたら、↓小さな看板が目にとまりました。
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「旧 鬼住村」ですって?! 本殿の隣に「鬼住神社」がありましたよね?
それで鳥居の礎石がここに遷されていたんですね。
かつてヤマト王権は先住民を「鬼」と呼びました。
そして南朝に与した楠木正成らは「悪党」と呼ばれたのです。
もちろん現在つかわれる「悪党」とは意味が違います。
 
ここまで来たら、そんな「悪党」の本拠地へ行かなくては!!
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あれ? 南木神社って何です?
(わかりました! 「楠」の偏と旁を逆にしたんだ!!)
横を見たら階段がありました。
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正一位 水分(みくまり)大明神」とある当社は「南河内郡千早赤阪村大字水分」鎮座の
建水分(たけみくまり)神社です。「楠木家氏神」「金剛山鎮守」とあります。
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階段を上ったら本殿の隣に末社として金峯神社がありました。
 
「富田林方面の駅までお願いします」と運転手さんに申し上げたら
「この辺りじゃ瀧谷不動尊が有名ですよ」と仰るので行ってみたら、これが瀧?
ホースからチョロチョロ出てる程度の水ではトホホ…なので囲いをつけたのかな?
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一応、社殿も見てきました。
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このまま帰るのではあまりに尻切れトンボなので地図で駅の周辺を見ていたら
PL学園の南に読めない神社がありました! 読めない神社へは行くのが鉄則!?
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おおぉ…ルビが無い!! しかも「眞名井ヶ原」とは…!?
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せっかく来たので入ってみましょう。
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ここまで来たら上がるほかありません…。本殿の背後に4基の古墳があるそうです。
昔は渡来人の任那の大国吉士(キシ)が住んでいたんですって!?
だから近くに「喜志」駅があるんですね。
でも私が知りたいのはそれ以前にどんな人々が住んでいたか…です。
 
古墳時代前期の前方後円墳任那渡来の人々が築いたんですか?
ブリタニカによれば
「日本は半島に有利な立場を築くため、370年前後に大軍を送って
半島南部の諸小国群をその支配に繰入れ、いわゆる任那を成立させた」
「5世紀以後、大和政権の動揺と百済新羅の進出によって
任那は分割され、やがて欽明23年(562)に滅亡した」
そうですが、朝鮮の学界では「任那日本府」の実在は否定されています。
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ずいぶん厳重に囲まれてるんですね。
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ちょっと失礼して本殿の左側だけ撮ってビックリ!? ここにも南木神社
わかりました。
南木(なぎ)神社の祭神は楠木正成で、千早赤阪村建水分神社にあるのが最古。
その楠木正成建水分神社を「上水分社」、
当社を「下水分社」として崇敬していたそうです。
偶然にも"悪党"が氏神とした上下の水分神社に行けたわけですね!?
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という次第で、美具久留御魂(みくくるみたま)神社の石段を下りていたら
正面に二上山が鎮座してました!!
 
「ナキ」神社の名前にも思い当たることがありますし、
たとえば古墳時代の遺跡の下から弥生時代縄文時代の遺跡が発掘されるように
この国の神社にも何層もの民族の痕跡が残っています。
現在の社名や祭神だけではどうにもなりませんね…。