前回、念願だった「賀名生御所」行きを果たし、敷地内に宿泊できました!
もう、これ以上の幸運は望めませんが、今回は「天野行宮」へ。
この天野川にかかる橋はさまざまな形状で、7ヶ所はあったような?
広大な境内のうち、公開されている部分を拝観するつもり。
境内図中央の庭園部分です。
⑧奥殿(北朝御座所)へ向かっています。
あ、反対側にも通路が見えてきました。
どなたも居られませんが、障子を開けて入ってよいと書かれています。
右端に僅かに見える巨大な備前焼の壺がある場所から入ったのですが、
外にも大きな壺(甕?)がありました!?
最初の部屋は右手に空海の掛図がありましたが、次の部屋の奥が御座所のようです。
建物の中は、畳の部屋を囲む廊下でぐるりと一周できました。
正平9年(1354)3月から正平12年2月にかけて当院を行在所として使用された。
京都常照皇寺で亡くなられたのち、遺髪を当寺に送って来られた。
従って境内に御陵がある。
では、なぜ、ここが北朝の御座所となったのでしょうか?
2月25日に院宣を得た尊氏は盛り返し、5月25日に後醍醐方を破って上洛します。
その後醍醐が12月に京都を脱出し、吉野を拠点としたことで南北朝時代が始まりました。
正平2年/貞和3年(1347)に、楠木正行が京都奪還を目指して蜂起するも、
正平3年/貞和4年(1348)1月5日の四條畷の戦いで討ち取られ、吉野が陥落したため
それが、観応の擾乱(1350年11月26日~1352年3月12日)によって息を吹き返したのです。
南朝方は累代の宝物や後醍醐が偽物とした神器などの引き渡しを求め、接収しました。
移された同年(1352)8月8日、「賀名生」で出家。
3年間、塔頭「観蔵院」を行宮とされました。
金剛寺の「摩尼院」と「食堂(じきどう)」を行宮としたため、
この奥が⑨の「摩尼院」ですね。
拝観チケットは本坊と伽藍のみでしたので、入れませんでした。
私は画像右手から拝観し、左手へ向かいました。
③の「楼門」まで来ました。いわゆる逆光ですね。
中に入ってから撮ってみました。
右手の黒っぽい建物が④の食堂ですね。
そして奥が①の「金堂」。
何と言っても目立つのは②の多宝塔です。
「女人高野」として再建されました。
はじめ歴代女院女房が四代にわたって院主(いんじゅ=住職)をつとめたそうです。
阿観上人はまた、高野山の鎮守である高野明神(狩場明神)と丹生明神を勧請し、
伽藍を見下ろす天野山中に社を建立すると同時に、地主神の水分明神も祀りました。
これが現在の高野・丹生明神社と水分明神社(ともに重要文化財)だそうです。
金剛寺公式ページに掲載されている下の境内図は、
画像上部に高野・丹生明神社と水分明神社が極彩色で描かれているため、
豊臣秀頼が慶長年間(1596-1615)に建立した社殿と考えるべきでしょうか。
(↑の絵図は左が北です)
当地の「天野」の地名もまた、金剛寺を再建した阿観上人が
鎮守を高野・丹生明神としたことと無関係ではないように思えます。
金剛寺と丹生都比賣神社はともに東経135.52に位置しています。
不思議なことに、私は「金堂」や「多宝塔」などを撮影したものの、建物の中へは
入っていません。何度も書いたように、人工的建造物への興味が皆無なんですね…。
…で、何をしたかと言うと、「竜王池」の隣の、冒頭の境内図には
記載されていない「竜王三社」の横で演奏修行させていただきました。
ここは、天野山を仰ぐ形となり、古代のイメージが湧きます。
周辺が「天野谷の歴史文化遺産保存活用地区」ということなので少し走ってみました。
北上すると青賀原神社があります。
このこんもりですね。
「青」とは葬送に通じる地名ですが、そんな雰囲気は感じられません。
気温29℃の炎天下を15kg超の楽器ケースを背負って登りたくはないため
望遠で社殿を撮っただけで失礼させていただきました。
この先の「天野街道」は古代の道という感じで本当に素晴らしかったです。
少し遠回りになりましたが、走っていること自体が楽しくて…。
ここに「反正天皇産湯の井戸」があるというので来てみました。
もちろん期待はしていません。淡路島でも「反正天皇生誕の地」とされる産宮神社の
社殿の手前に「反正天皇産湯の井戸」はありました。
わざわざ来てみたのは古代人の思考について考えるためで、時間的余裕があれば
当社の真北約3kmにある松原市上田の柴籬(しばかき)神社へも行きたかったのです。
そこから6.5km真西には反正天皇 百舌鳥耳原北陵とされる「田出井山古墳」があります。
それが歴史的事実かどうかにかかわらず、場所や伝承を紐づけしてゆくことで
陣取り合戦を繰り広げていたのではないか…との仮説を立て、裏をとろうとしています。
いま我々は政治と宗教を別々に考えますが、「政教分離」なんて言葉があるように
同じ根っこから生えたものだったのでしょう。
ことに古代には、祭=祀=政(まつりごと)と考えられていたのではないでしょうか?
そんな興味から、古代氏族高向氏の拠点だった河内長野市高向へ行きました。
が、社名のルビが「たこう」になっていてビックリ!?
由来するとしたら「たかむこ・たかむく」になるではないのでしょうか?
あるため、私が追ってきた《薦枕》を奉斎する氏族も渡来系ということなのでしょうか?
すると、スサノヲを祀るスカ・ソカ・サカの人々も渡来系ということになります。
高向神社の本来の祭神はスサノヲと書かれていましたから、
この周辺が古来、渡来人の居住地だったという歴史とも合致します。
当社には多くの方々が「高向王」との関連性を求めて訪れたようで、
「関連性が見つからず残念な場所だった」との記述を幾つも目にしました。
境内に「高向王の墓」と伝わる墓がありますが、高向王の経歴は不明。
なお、高向王は、その名から高向臣が資養にあたったとされ、
蘇我氏と深い関係があったものと推測されています。
古代より渡来人居住区だったという当地を走っていると、こんもりが。
富田林市宮甲田町の錦織神社です。
古来より「水郷天王宮」と呼ばれていたとか? ならば高向神社と同じスサノヲですね。
それでは今日最初に行った龍田大社に時間を巻戻します。
ここまで来たものの「大宇宙平和教」かと思い、そのまま退散しました。
地形を知りたくて裏を走ると、高台に鎮座していました。
西南に見える低山は恐らく三室山(137m)でしょう。別名「三諸山」。
ここにも「三諸山」があったとは…。
「三諸」を求めてダンノダイラ(桜井市出雲)へ行ったことが思い出されます。
「三諸」は『琴歌譜』第一曲目「茲都(しづ)歌」に出てくるので…。
みもろに築(つ)くや玉垣 築き余す 誰(た)にかも寄らむ 神の宮人
そして、真西が昨日行こうとした「龍田本宮御座峰」です。
金山彦・金山媛を奉斎する人々の聖地と紐づけしたものかどうかは謎。
龍田大社から下って三室山の麓を走りつつ撮影ポイントを探しましたが、
狭い道を車が往来していたため撮れませんでした。
↑ の画像の右端に少し写っているのが三室山かと思われます。
ここは、亀の瀬地すべり資料室の手前で、25号線の右下を流れるのが大和川。
かつての龍田川です。
こうした変化も歌の解釈を誤らせることがあります。
この曲はのちに《むすんでひらいて》の歌詞でよく歌われました。
一番
見わたせば。あをやなぎ。花桜。こきまぜて。
みやこには。みちもせに。春の錦をぞ。
さほひめの。おりなして。ふるあめに。そめにける。
「みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける」の本歌取りです。
小学生には難しいですよね?
明治の初頭には、西洋音楽の指導者も音楽教師もいなかったため、
主に外国曲に日本語の歌詞をつけて用いた『小学唱歌集』は
単に小学校の教材としてだけでなく、師範学校などでも使われました。
唱歌で国語力のアップを狙ったのかも?
一番のテーマ「佐保姫」は春を司る女神とされています。なぜなら
東=春、西=秋、北=冬、南=夏とされていたからです。
そして、二番のテーマ「龍田姫」は秋を司る女神。
二番
みわたせば。やまべには。をのへにも。ふもとにも。
うすきこき。もみぢ葉の。あきの錦をぞ。
たつたびめ。おりかけて。つゆ霜に。さらしける。
「嵐吹く三室(みむろ)の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」が浮かびます。
ただし、唱歌の歌詞の舞台となると、
「三室山」とかつての龍田川たる大和川本流のある場所よりも、
現在の龍田川の源流というか生駒あたりが、平城京を挟んで
佐保山や佐保川源流の反対側ということになるのかも知れません。
近現代の歌について考えることにはあまり燃えませんが…、
「三室山」に関しては、もう一ヶ所どうしても足を運ばなくてはならず、
二つの「三室山」、いつ踏破できるでしょうか?